裁判員制度の違憲論について(下)
前回は、大きく3つの違憲論をみてきました。中には、説得力がない訳ではないものもありましたが、どれも決め手に欠けるものばかりでした。そこで、あと2つの違憲論を取り上げてみたいと思います。
⑤ 不殺生を旨とする宗教との関係は?
裁判員法16条8号に規定する「やむを得ない事由」の具体的内容を定めることを委任された政令の6号にある不出頭事由の中には、宗教上または良心上 の理由による不出頭は含まれているのか。いないのならば、憲法19条、20条に反するのではないか、を問題視する違憲論があります。
まず、良心に関する点は、説得力はありません。良心上の理由で国法の義務を拒むのは通常認められないからです。(この例外が、アメリカで問題となっ た良心的兵役拒否ですが、今回は裁判員になったとしても「死刑を下さない」という選択肢もあるのですから、全く同視できません。)
次に、宗教に関する点ですが、これも結局「死刑を下さない」という選択肢がある以上、信教の自由侵害を構成するのはなかなか困難です。例えばいかなる生命も奪わないという教義のある宗教があったとしても、死刑に反対するのであれば、宗教の核心部分を侵害したとはいえなさそうです。
もし侵害を構成する必要がある場合は、死刑に反対したにも関わらず、裁判体の結論として死刑ということになった場合、死刑確定という装置の一部と なって関与したことになってしまいますので、これは、生命を奪う行為に加担しない、という信仰の核心部分を侵害するとでも構成することになるでしょう。こ のように侵害を構成できたならば、あとは信教の自由は精神的自由ですので、二重の基準論から厳格な審査基準を導き、あてはめをするという流れで違憲に持っていくのは比較的容易と考えられます。
これは、原告が何らかの信仰を有していた場合にのみ、それなりに有用な方法といえそうです。
⑥ 守秘義務はやりすぎ?
最後に、裁判員の守秘義務規定(裁判員法70条・108条)は、裁判員の表現の自由を侵害する、という違憲論をとりあげます。
この守秘義務規定は、義務の範囲が広すぎるとよくいわれます。義務の範囲が広いことの一因はおそらく、被告人のプライバシー保護ももちろんですが、裁判員が報復されないようにという裁判員へのパターナリスティックな規定であるという側面も有しているからだと思われます。
つまり、この規定の合憲性を考える際には、公共の福祉による正当化を考えるとともに、パターナリスティックな規定であるという点からの正当化も考える必要が出てくるのだと思います(私見)。こう考えると、事案に当然よりますが、一般論としては正当化されやすく、違憲論としては物足りない構成である、 とおもわれます。
以上、大きく5つの構成を見てきましたが、これぞという決め手はなく、あえていえば、被告人に裁判官のみの裁判を受ける選択権がない点、意に反する苦役を国民に課すことになりうる点、信仰の核心を侵しうる点が違憲論として主張すべき大きなポイントであると私は考えます。