裁判員制度の違憲論について(上)
今回は、裁判員制度の違憲論のうちの代表的なものにスポットをあてて、最も説得力ある主張はどれかを検討してみたいと思います。この際、平成23年 11月16日に最高裁の大法廷で合憲判決が出ていますので、これをひっくり返せるとしたらどの点なのか、ということも併せてみていきます。個人的には、国民の司法参加を促す裁判員制度は有意義なものと考えていますが、違憲論をどう構成するかという視点で考えることにします。
① 裁判員制度
裁判員制度の詳細についてはググってください。裁判員法に基づき、裁判官および裁判官以外の者で裁判体を構成し、これによって裁判が行われるという制度です。
② 「裁判所」にあたらない?
まず、裁判官以外の者が裁判体を構成している点で、憲法80条1項の「裁判所」にあたらず、憲法32条、37条の「裁判所」にもあたらない結果、裁判を受ける権利(憲法32条)や、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利(憲法37条)を害するという主張が考えられます。
ここでの問題は、憲法は身分保障のある裁判官以外の者が裁判体を構成することを許容しているのか、という話です。この点については、最高裁は、憲法 79条1項で「その長たる裁判官及び法律に定めるその他の裁判官でこれを構成し」とあるため裁判官以外は構成員となることはできませんが、下級審では、そのような直接構成を定める規定はどこにもないため、形式上は許容されているといえそうです。
(憲法80条1項の存在する第六章「司法」は、職業裁判官を念頭においた規定ですから、職業裁判官についてだけ80条1項は定めてあるのであって、裁判体の構成員をこれに限るという趣旨ではない、と読むのです。)
(形式的に許容されていることを裏付けるのが明治憲法下では「裁判官」の裁判を受ける権利となっていたのに、日本国憲法下では「裁判所」の裁判を受ける権利と表現されるようになったという事実です。)
実質上も、裁判員は裁判員法13条~37条等を見ていただければわかるように公平性、中立性が確保されるような手続きによって選任されており、ま た、あくまで裁判員が関与するのは事実認定、法令の適用及び量刑にとどまり、法の解釈は裁判官の職責でありますから、依然として「裁判官は刑事裁判の基本 的な担い手」といえるため、憲法が定める諸原則を確保することに支障はないといえます。ここから、憲法は裁判官以外の者による裁判体構成も「裁判所」の一種として許容しているといえます。
したがって、この違憲論は無理筋といえそうです。
(具体的には、形式面はまだしも実質面での違憲の論証はかなり困難です。裁判員制度は、アマチュアによる視点を司法に反映させることを目的の一つと した制度ですから、アマチュアの能力に対する不安という直感的な違憲理由に説得力を持たせることができないことがその理由だと感じています。)
Cf. この議論の延長線上に、被告人が裁判員による裁判を拒否する権利がないことが問題だとする違憲論があります。これは、裁判員による「裁判所」構成は認めるとしても、被告人に、裁判官だけによって構成された「裁判所」の裁判を受ける選択権を与えるべきだという議論です。この議論は、必ずしも アマチュアの能力を否定する主張を展開する必要がなく、論証はしやすいと思われます。また、上記判例では何故か争点となっていないため、その意味でも争う実益はあります。もっとも、裁判員制度が被告人にとって厳罰化の流れにあるのは周知の事実ですので、これを認めると被告人は裁判員を回避することとなり、 事実上裁判員制度が骨抜きになるという重大な懸念があります。(イギリスの陪審員制度は現にそうなっているという実証例まであります。)
③ 裁判官を拘束する?
次に取り上げる違憲論は、裁判員制度は、裁判員の判断に影響、拘束される点において、裁判官の職権行使の独立を保障した憲法76条3項に反するというものです。
これは②で合憲といったなら、合憲というべき筋合いのものです。それを平成23年11月16日判決はこう表現しています。
「憲法が一般的に国民の司法参加を許容しており、裁判員法が憲法に適合するようにこれを法制化したものである以上、裁判員法が規定する評決制度の下 で、裁判官が時に自らの意見と異なる結論に従わざるを得ない場合があるとしても、それは憲法に適合する法律に拘束される結果であるから、同項(76条3 項)違反との評価を受ける余地はない」
つまり、裁判員制度というシステムが合憲であることを認めるなら、裁判員が裁判官に影響を与えるのは当然に予定されている事態なのだから、それだけを切り取って問題視することはできない、というわけです。
このように、違憲論を組み立てるのはこの場合も難しいのですが、違憲論が一番問題視している局面だけ指摘しておきたいと思います。それは、プロの意見が一致して有罪なのに、アマチュアが全員無罪といえば無罪となるという局面です。これも結局アマチュアの能力に対する不安ですので、説得力をもって論証するのは難しいのですが、直感的に不安を感じる部分ではある気がします。
④ 国民を苦しめる?
次は、裁判員制度は、裁判員となる国民に憲法上の根拠のない負担を課すものであるから、意に反する苦役に服させることを禁じた憲法18条後段に違反する、という違憲論をとりあげます。これは結局、「意に反する苦役」とはいかなる意義か、という問題に帰着します。
上記判例は、意に反する苦役について、「裁判員の職務等は、司法権の行使に対する国民の参加という点で参政権と同様の権限を国民に付与するものであ り、これを『苦役』ということは」適切ではなく、また、裁判員法16条で辞退に対し柔軟な対応をしているし、日当等経済的措置もあるため、「これらの事情 を考慮すれば」、「『苦役』に当たらないことは明らか」と表現しています。
ここから判例は、「苦役」というものを客観的な基準として想定できると考えていること及び単なる強制の契機とは捉えていないことがわかります。
もっとも、ここは通説が固まっている場所ではおそらくないので、別の考え方に立って違憲論を構成することは十分に可能と考えられます。
「苦役」を単なる強制の契機と捉えることも可能でしょうし、そもそも苦役などというものは主観的にしか把握できないという捉え方も十分に説得力があ ります。主観的に把握するということは、「苦役」にあまり意味を認めず、「意に反する」のかどうかが問題となるのであって、結局「意に反する苦役に服させ られない」権利というのは、精神的自由権であるということとなります。そのため、精神的自由に対する侵害として構成し、正当化できないのだと主張するわけです。
他方、「苦役」について、通常人からみて普通以上に苦痛に感じられるような任務と(客観的に)定義した上で、その苦痛を論証するという手法では、説得力を持たせるのは難しいと思います。このような論証する場合、その苦痛は、裁判活動が人に精神的経済的な負荷によって生じるのだという必要があります が、経済的な負荷は日当等で緩和されていますし、精神的負荷は説得的な論証が困難だからです。
以上のように、「苦役」について違憲論を構成することは可能だと思います。しかし、判例をひっくり返すほどの説得力はない、と私は考えています。
(続く)