政教分離原則

政教分離原則について

 

政教分離原則は、どういう概念かという根本的なところから争いがあり、判例のいう政教分離原則の理解も一筋縄ではいきません。そこで、政教分離原則の内容及び判例の捉え方を可能な限り明らかにして、構成の仕方を考えたいと思います。

 

①     政教分離原則の趣旨

 

政教分離原則は、国家と宗教を分離するという考え方です。なぜ分離すべきかについては、信教の自由の保障を強化するため、と言われています。判例も 津地鎮祭判決(最判昭和52・7・13)において、政教分離規定が、「いわゆる制度的保障の規定であって、信教の自由そのものを直接保障するものではな く、国家と宗教との分離を制度として保障することにより、間接的に信教の自由の保障を確保しようとするもの」と判示しており、同様の考え方に立っているよ うです。

 

この考え方をもう少し敷衍してみます。なぜ、政教分離原則を採用することが信教の自由を強化することにつながるのでしょうか。

 

一つには、信教の自由を直接侵害しない間接侵害をも憲法問題の俎上にのせることができるという説明の仕方が考えられます。

もう一つ説明の仕方が考えられます。それは、信仰というものは本質的に排他的でありまして、妥協できないため悲劇になりやすく、社会の中での分裂と混乱の種となっています。加えて、アメリカのような多元的な国では、国が特定の宗教に何らかの肩入れをするだけで深刻な分裂の引き金になりかねず、全ての信仰を個人的なものとして保障する(=信教の自由)だけでは、社会の分裂回避策としては不十分でした。つまり、国と宗教とを原則的に切り離す必要がありました。そして、比較的同質的な日本においては、あまり必要なかったのですが、アメリカからそのまま輸入されたのだ、という説明です。信教の自由を保障するだけでは、信教の自由を保障した趣旨は達成できないということですね。この説明の仕方は、制度的保障説につながりやすい説明です。

 

もっとも、信教の自由と調和する制度は政教一致等他にもありえるため、それが唯一の理由ではありません。日本特有の理由として挙げられるのが、国家 神道という過去の歴史的経験に対する反省です。ただ、歴史の経験というのは、「現在ではその趣旨は妥当しない」という反論が必ず予想されるため、時間の経過とともに説得力がなくなっていきます。そのため、信教の自由強化等他の理由と必ずセットで理由を説明する必要があると思います。

 

②     政教分離原則の内容

 

政教分離原則については、まず人権なのか制度的保障なのか、という点が争われており、どちらと考えるかによって構成の仕方が大きく変わってきます。

この点について、人権と捉えるのは無理があるというのが学説の多数です。政教分離原則を信教の自由強化のための手段原理と捉えた以上、公権力が政教分離に違反しないことにより得られる利益は、反射的利益にとどまるのです。反射的利益に人権としての内実はありません。手段原理と捉えたことの論理的必然としてこうなるのです。

したがって、人権説をとりたければ、政教分離原則の趣旨を信教の自由強化以外から導く必要がありますが、なかなか説得的な論証は難しいと思います。

 

ですので、制度的保障と捉えるのが無難であると思います。しかし、制度的保障という考え方を展開するとどう憲法適合性審査をすればよいか不明瞭です。

そこで、宍戸先生の指摘が参考になります。

 

「要するに政教分離の性質は人権でも制度的保障でもなく、端的に「客観的法規範」といえば足ります。仮に制度的保障説を採るにしても実質は同じこと であり、制度的保障だから「制度の核心ないし本質的内容」の侵害だけが禁止されるとか、逆に政教分離違反の判断が緩やかになるから制度的保障説は良くない といった、概念実在論的な思考に縛られる必要はありません」(「憲法-解釈論の応用と展開」120頁)

 

つまり、○○説みたいなものを無理に前提にするのではなく、憲法が国家を縛る規範であり、憲法上の政教分離原則が公共の福祉の実現に向けて政教分離 に違反してはならないと国家権力を義務付ける客観法規範である点は疑いないのであるから、端的にそう指摘すればよいということだと思われます。

その上で、政教分離原則違反だけでは主観的利益に欠けますので、主観的利益が必要な場合は、宗教的人格権等を併せて主張すべきこととなるのだと考えます。

 

詳細に説明しますと、

(1)   「信教の自由侵害を構成できる場合」・・・政教分離原則を持ち出す必要はありません。

(2)   「信教の自由侵害を構成できず、かつ、住民訴訟等客観訴訟が可能な場合」・・・政教分離原則違反だから憲法上の客観法規範に反する行為だということを、住民訴訟等の要件検討の中で主張することになります。

(3)   「信教の自由侵害を構成できず、かつ、住民訴訟等客観訴訟も不可能な場合」・・・主観的利益が必要ですから、宗教的人格権侵害等を構成したうえで、侵害態様が強いものである旨の主張の中で、憲法上の客観法規範に反するような強い侵害であるという形で構成します。

 

③     判例の違憲審査基準

 

判例の基準の理解は、学者によっても区々で、いかなる理解が正確かは不明です。

津地鎮祭事件判決で判例は目的効果基準を採用したかに思えましたが、空知太神社事件判決(最判平成22・1・20)において、目的効果基準を用いま せんでしたので、放棄したのか注目を集めました。その後、白山ひめ神社事件判決(最判平成22・7・22)において、空知太事件判決を先例として引用しな がら、目的効果基準を再び使っており、これをどう理解すればよいのか議論になっているのです。

 

有力な判例理解の方法として、「宗教との関わり合いが、信教の自由の確保という根本目的との関係で相当とされる限度を超えるか」という上位基準があ り、社会的儀礼であり宗教との関連性が弱い場合には、目的効果基準を下位基準(サブルール)として使っている、というものがあります。とてもわかりやすい し、何より構成しやすい理解であると思われます。

 

通説はレーモン・テストですが、これを展開する必要は通常ないように思われます。というのは、レーモン・テストを導くには原理原則(不介入と公平の二つの要素の調和)から論証する必要があり、非常に手間です。また、判例は、国家と宗教との関わり合いが原則許容されることを前提に、例外的な過度の関 り合いかどうかを目的・効果の側面から分析するという手法を完全に確立させていますので、むしろこれを(論証したうえで)所与のものとして、その手間はむ しろあてはめに費やした方がいいと思われるからです。

(もっとも、過度のかかわりあいを分析する手法では原告は勝てないという事案では当然、原告側はレーモン・テストにまで言及する必要がありますので、ケースバイケースであることは言うまでもありません。)

 

 

以上のように私は整理しています。

原告側ならば、愛媛玉串料判決や空知太判決の事案との共通点を論証し、援用することで違憲にもっていくのに対し、被告側ならば、白山ひめ神社判決等 との事案の共通点を論証し、援用することで合憲に持っていくわけですが、判例の「相当とされる限度を超えるか」という上位基準はできれば動かさずに、あて はめで決着をつけるべき事案がほとんどになるのではないかと感じています。