平等権

平等権について

 

平等権について今回は考えてみます。

平等権は、内実のはっきりしない権利です。権利を組み立てる側から見ると、いかようにでも組み立てうる反面、説得力を持たせるには権利の存在を主張 するだけでは足りないため扱いづらい権利といえそうです。それでも、無理矢理にでも憲法論を構成する必要が必ず出てくる法律家にとって、平等権は優れた道具であります。そこで、この道具の使い方を考えてみようと思います。

 

①     平等権の内容

 

まず、平等権をいかなるものと構成すべきでしょうか。

これには二つの考え方があるように思われます。

一つは、平等権を単に「区別されない権利」をいうと解する方法です。一般に使われる平等という言葉の意義にも合致していますね。AさんとBさんを何らかの形で別異に取り扱うすべての行為が平等権制約なのです。

もう一つは、平等について憲法上の特別の意味を読み込む方法です。これは、政治思想や歴史等様々な観点から「平等」とは、いかなる意味を有する概念かを論証することになります。

私としては、学者にでもならない限り前者の考え方でいいと思います。

 

②     権利の正当化の可否

 

では、平等権が制約されていれば即平等権侵害で憲法違反かというと、もちろんそうではありません。小山先生は『「憲法上の権利」の作法』109頁に おいて、「審査は、基本的には別異取扱い→正当化という2段階に整理される」とされており、それは平等権を絶対保障ではなく相対保障ととらえていることを 意味します。平等権を広くとらえた以上、正当化を問題にしなければならないのは必然です。

 

③     正当化の基準

 

正当化がありうるとすれば、次に問題になるのが、いかなる場合に正当化されるのか、です。この点については、判例・通説ともに「合理的な区別」である場合に正当化されると考えているようです。

人には現実に様々な差異があるため、その差異に着目したカテゴライズを行い、各々のカテゴリー内では差異はないため、同一に取り扱うべきです。その 反面、差異が既に存在するカテゴリー間においては、その差異に基づく異なった取扱いをすることこそが真の意味での平等をもたらします。このような考え方を相対的平等論といいますが、この考え方からは区別自体は当然存在すべきものであるため、良い区別と悪い区別を分類する基準が必要になります。その基準こそ 「合理的」であるかどうかなのです。

 

④     判例の正当化の基準

 

では、いかなる場合が「合理的な区別」といえるのでしょうか。

 

この点、判例は国籍法違憲判決(最判平成20・6・4)において、「立法府に与えられた上記のような裁量権を考慮しても、なおそのような区別をすることの立法目的に合理的な根拠が認められない場合、又はその具体的な区別と上記の立法目的との間に合理的関連性が認められない場合には、当該区別は、合理 的な理由のない差別として、同項に違反する」としています。

つまり、㈠目的が正当で、㈡その目的と合理的関連性のある区別であれば合憲という基準を用いています。これはかなり緩やかな基準です。

平等権侵害の存在を否定する側は、判例の存在とともにこの基準を主張すれば十分ですが、平等権侵害を構成する側がこの基準にのっかるのは得策ではありません。そこで、学説にも目を向ける必要があります。

 

(もっとも、国籍法事件判決は、国籍が「重要な法的地位」と言及し、準正は「子にとっては自らの意志や努力によっては変えることのできない」ものだと指摘するなど、基本的権利や疑わしい差別かどうかに配慮を見せており、結果合理的関連性を否定しているため、完全に不利という訳ではないです。しかし、 この基準に最初から違憲を構成する側がのっかるのは明らかに不十分と思います。)

 

⑤     学説の正当化の基準

 

学説は、より厳格な審査基準を定立する為に、判例のように「不合理でなければよい」という審査方式だけではなく、一定の場合には「合理的でなければならない」という不合理性が推定されていることを前提とした審査方式が用いられるべきことを主張しています。

その一定の場合とは、例えば憲法14条1項後段列挙事由に特別な意味を見出す考え方や、歴史的背景や社会的偏見の存在による区別である「疑わしい範疇」について不合理性を推定する考え方や、基本的権利が関わっている場合だとする考え方がありますが、どれも説得的に展開する必要があります。

ひとつ例を挙げると、「社会的身分」による差別がなされていたとして、憲法14条1項後段列挙事由だから、この区別に合理性がない、という主張は説得力がありません。「社会的身分」とは、後段列挙事由の中でも特に雑多な概念で、中身がはっきりしないからです。ですので、その区別が「社会的身分」にあ たるうえで、例えば社会的偏見の存在を主張するなど主張の補強をしないといけないわけです。

 

この点において、木村先生が『憲法の急所』269頁で、「社会的身分」にあたることからすぐに厳格な合理性の基準を導いたことには物足りなさを感じ ます。「社会的身分」について広義説に立つならば、「社会的身分」にあたること自体の違憲性は薄まるわけで、そこを補強するような主張(例えば、血縁関係を重視する日本社会においては、親子関係に血縁のない非嫡出子の養育者というマイノリティーに対して社会的偏見が存在するため「疑わしい範疇」といえると か)が必要だったのだと考えます。

 

 

以上が、私が認識している平等権という道具の使い方の簡単な整理です。

平等権を「区別されない権利」として構成したうえで、平等権侵害を否定する側は、判例の基準にのっかって否定し、平等権侵害を肯定する側は、判例の基準で侵害を構成できるか検討した後に、学説の基準で説得的に侵害を論証するという流れになるわけです。

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