宗教上の人格権について
宗教上の人格権の存在理由については、「政教分離原則について」ですでに述べています。ここでは、実際に宗教上の人格権を構成する際の注意点について書いていこうと思います。
① 宗教上の人格権の存在理由
すでに述べたことでありますが、議論の出発点ですので、再掲しておきます。
(1) 「信教の自由侵害を構成できる場合」・・・政教分離原則を持ち出す必要はありません。
(2) 「信教の自由侵害を構成できず、かつ、住民訴訟等客観訴訟が可能な場合」・・・政教分離原則違反だから憲法上の客観法規範に反する行為だということを、住民訴訟等の要件検討の中で主張します。
(3) 「信教の自由侵害を構成できず、かつ、住民訴訟等客観訴訟も不可能な場合」・・・主観的利益が必要ですから、宗教的人格権侵害等を構成したうえで、侵害態様が強いものである旨の主張の中で、憲法上の客観法規範に反するような強い侵害であるという形で構成します。
つまり、靖国参拝訴訟のように、原告がこのままでは法律上の争訟にのせることができないという場合に、「無理矢理」法律上の争訟にのせるというところに存在理由があります。
この「無理矢理」という認識が大事だと思います。宗教的人格権は、単なる不快感との区別が明確ではなく、よほどの論証をしない限り受忍すべきものではないのか、という疑念が拭えず、説得力が出せないのです。
② 宗教上の人格権の扱い方
宗教上の人格権を扱うにあたり、参考になるのが、自衛官合祀事件(最判昭和63・6・1)の伊藤正己裁判官の反対意見です。
伊藤裁判官は、宗教上の人格権について「呼称や憲法上の根拠はともかくとして、少なくとも、このような宗教上の心の静穏を不法行為法上の法的利益と して認めうれば足りる」として、被侵害利益性を認め、その侵害の態様は政教分離違反であり、「右の行為は憲法秩序に違反するものであるから侵害性の高度なもの」と評し、「国が被害者に対して受忍を求めうる立場にないことは明らか」としています。
要は、法律上の争訟にのればそれでいいので、「宗教上の人格権=静謐な宗教的環境の中で信仰生活を送る権利」などという定義は不要で、何らかの主観的利益が構成できればそれでいいのです。そして、その利益を侵害する侵害行為の態様が違法性の高いものだと主張し、総合的に勘案すると違法だ、という結論に持っていくのです。
もっとも、この際、侵害行為の態様と被侵害利益との総合判断だからといって、被侵害利益をないがしろにするわけにはいきません。
総理大臣靖国参拝事件(最判平成18・6・23)の滝井繁男裁判官の補足意見を参考にしてください。
「特定の宗教施設への参拝という行為により、内心の静穏な感情を害されないという利益は法的に保護されたものということはできない性質のものであるから、侵害行為の態様如何にかかわらず、上告人らの法的利益が侵害されたということはできないのである」
被侵害利益性は、法律上の争訟性にもかかわってきますので、これが一定水準ないと、そもそも訴訟にのせられないのです。ですので、ここの論証は常に気を配る必要があります。
例えば、自分は特別感受性が高いから傷つきやすいのだという主張に説得力はありません。このような場合は、宗教的少数者としての信仰生活に支障をき たすというような主張を構成していくのが論証の一例です。つまり、個人の主観的利益を完全な「その人個人」ではなく、「ある宗教的少数者の代表としてのそ の人個人」から構成するのです。別にその人が宗教上高い地位にいるかは関係ありません。訴えているのはその人である以上、その裁判内ではその宗教を代表さ せて構成すればいいのです。