建造物の現住性(上)

建造物の現住性(上)

 

今回は、放火罪第5弾として、「現住」性について取り上げます。

今回のポイントは、「公共の危険」概念や「建造物」概念と「現住」性概念との関係を理解することです。

 

     「建造物」、「住居」の意義

 

刑法108条は、構成要件について「放火して、現に人が住居に使用し又は現に人がいる建造物、汽車、電車、艦船又は鉱坑を焼損した者」と規定しています。

ここから、刑法108条の客体は、「現に人が住居に使用し」ている建造物等5パターンと「現に人がいる」建造物等5パターンの計10パターン存在する事がわかりますね。

このうち「汽車、電車、艦船又は鉱坑」の意義が問題となるケースはほぼありません。それに、仮に問題となったとしても、おそらく「鉱坑」以外はすぐ判断できるはずです。

ですので、ここでは「現に人が住居に使用し」ている建造物(=現住建造物)と、「現に人がいる建造物」(=現在建造物)を主に念頭に置いて議論を進めていきます。

 

(1)「建造物」とは

「建造物」とは、「家屋その他これに類似する工作物であって、土地に定着し、人の起居出入りに適する構造を有する物」(大判大正13531)と定義されています。

さらに、「屋蓋(=屋根)を有し壁または柱材により支持されていること」が最低限必要です。この判例の基準からすると、掘立小屋、納屋、炭焼小屋なども「建造物」に該当することになります。

以上で、「放火」行為の客体としての「建造物」か否かが画定できることになり、その結果、108条や109条の客体か、110条の客体かが区別されることになります。

cf. 「建造物」が複数存在するように見える場合には注意を払う必要があります。判例(最判平成177)の理解からいくと、「建造物」が複数存在するように見える場合でも、その「建造物」群が物理的・機能的に一体であれば「全体が一個の現住建造物であった」と評価することになります。これは、現住性の問題で、108条と109条の区別であり、本来は「建造物」概念は関係がないため、「一個の」という部分さえ無ければ「建造物」性は上述の本文の記述のみでよかったですが、この「一個の」という邪魔な部分のせいで「建造物」概念は108109条と110条との区別における「建造物」と、108条と109条との区別における(中でも建物が複数の場合の)「建造物」が異なるかもしれないという複雑なものになってしまいました。このように複数存在するように見えた各「建造物」は「建造物」ではないものとして取り扱う必要が生じたため、一般に「建物」と表現されています。例えば斎藤彰子・『判例百選』p.170、小川新二・『事例演習刑事法』p.303

 

(2)「建造物」の一部とは

「放火」行為の客体は、以上のように「建造物」であるか否かというレベルで議論されます。しかし、既遂時期を確定する際には、「焼損」の客体としての「建造物」が問題となり、これは少し異なるレベルの問題です。

「焼損」を判断する際、「建造物」全てが灰になるのでしたら分かりやすいですが、「建造物」内の一部だけが燃えた段階で火が消し止められることも多いです。その際、どの部分が燃えたら「建造物」の「焼損」といえるのかを画するのが、下記の「建造物」の一部といえるか、という議論です。

「建造物」の一部にあたるかどうかは、その「物件が家屋の一部に建付けられているだけでは足りず更にこれを毀損しなければ取り外すことができない状態にあることを必要とする」(最判昭和251214)とされています。

例えば、畳やじゅうたんは、毀損しないでも取り外すことができるため、「建造物」内にあったとしても、「建造物」の一部とは評価できない訳です。

ちなみに、エレベーターのかごは、物理的・客観的には「毀損」しなくとも取り外すことは可能ですが、「エレベーターのかごをその収納部分から取り外すには、最上階でかごから重りを外した後最下階に移したうえ、解体してエレベーター扉から搬出するなど、作業員約4人かかりで1日の作業量を要する」(札幌高判昭和6398)ことから実質的に「毀損しなければ取り外すことができない状態にある」場合に該当するものと考えられています。

cf. 「放火」レベルと「焼損」レベルで「建造物」に関する議論を分けるべきと明示している文献は見当たりませんでした。ですが、建造物全部燃やすつもりで畳に火をつけて、すぐ家人に気づかれたため畳しか燃えなかったという事案で、畳は建造物の一部ではないので、未遂すら成立しない、というのではあまりにオカシイと思います。建造物の一部かどうかは「焼損」レベル(既遂レベル)の議論であり、「放火」レベル(未遂レベル)では、客体は「建造物」か否かというレベルで捉えるべきように思います。最判昭和251214も畳は建造物の一部に当たらないから、既遂ではなく未遂が成立すると評価しています。ここからさらに議論を進めると、「公共の危険」の発生時期のみが既遂時期と捉える見解からは、既遂レベルで(「焼損」概念が問題とならないため)「建造物」概念は登場しませんので、「建造物」の一部という議論は不要であるように思います。)

cf. また、この「建造物」の一部という議論と建造物の内部的独立性という議論は似て非なる物である事を指摘しておきます。「建造物」の一部か否かは、未遂か既遂かを判定するものであるのに対して、建造物の内部的独立性は、現住性の範囲を画定するものであり、108条か109条かを分けるもので議論のレベルが全く異なるからです。例えば、もし上記平成177の事案が、エレベーターがすぐ取り外せるもので、かつ、延焼可能性や機能的一体性が無かったような場合であれば、❶エレベーターが「延焼可能性や機能的一体性が無かった」事からエレベーター部分の現住性が否定され、109条の要件論となることが確定し、❷エレベーターが「すぐ取り外せる」ことからエレベーターが「建造物」の一部ではないと評価され、「焼損」の有無を判断するまでもなく未遂となるため、結局非現住建造物放火未遂罪が成立するわけです。詳しくは次回詳述します。)

 

(3)「住居」とは

「建造物」であるか否かという以上の議論は、108109条と110条の区別であったのに対し、「住居」であるか否かは、108条と109条の区別として問題となります。

「住居」とは、「現に人の起臥寝食の場所として日常使用していることをいい、必ずしも昼夜間断なく使用している必要はなく、居住者がたまたま外出して一時その家にいない場合でもよい」(大判大正21224)とされています。

そして、「人の起臥寝食の場所として日常使用している」事の意味は、「人の生活の本拠としているという意味ではなく、単に何らかの人が日常生活の場所としていることを意味するにすぎない」(最判昭和24628)とされています。また、「日常」とは必ずしも毎日である必要はなく、頻度が34日に1回程度であっても、日常生活上必要な設備等があることから住居とされることもあります(最決平成91021)。

これで、「住居」の一般論は終わりです。

108109条と110条の区別は上述の(1)で完結していますが、108条と109条の区別は実はこの(3)だけでは完結しません

後で述べますように、(上で定義されたような抽象的な意味での)「住居」であることは、「『抽象的×2』な建造物内部への危険」が肯定できる事を意味するにとどまり、これを前提に当該具体的な建造物(群)について、建造物内部への類型的な危険の可能性を「延焼の危険(≠物理的一体性)や機能的一体性」という形で判断することで、「『抽象的(×1)』な建造物内部への危険」を内包するべき存在である(その事案における具体的な意味での)「住居」の範囲が画定します。

cf. この上のブロックの表現の意味を理解して頂く事が、本稿最大のポイントですので、ナニイッテンダ?と思われた場合も、とりあえず読み進めて下さいませ。最後に改めて説明します。)

cf. この「住居」概念は、「建造物」とは異なり「焼損」に関わる概念ではないため、既遂レベルの議論はありえません。もっぱら未遂レベル(=108条に問擬すべきか、109条に問擬すべきか、というレベル)で議論されることになります。)

 

     放火罪における「住居」の位置づけ

 

(1)108条の重罰根拠

108条は、「現に人が住居に使用し」ている「建造物」(=現住建造物)と「現に人がいる建造物」(=現在建造物)を客体とする放火について、109条よりも遙かに重く、殺人罪と同等であり、死刑をも含んでいる極めて重い法定刑を用意しています。

このように重い刑罰が用意されている理由は、「建造物内の人に対する危険」を、延焼の危険を中核とした通常の「公共の危険」とは別途評価しているからです。

cf. 林幹人教授は、『刑法の争点』p.218において「公共の危険とは、建造物等の外にあるものである。したがって、これを外的危険と呼ぶことができる。108条の罪においては、現在性・現住性が要件となっているが、これらはいわば内的な危険である。108条の法定刑の重さは、この内的な危険と外的な危険が共存することによると解されるが、この2つの危険は性格を異にするものであり、区別する必要がある」とされています。

この公共の危険を外的危険に限定した定義づけに私は違和感を覚えます。このような「公共の危険」の理解の背景には、「公共の危険」は放火罪全体を規律する概念であるため、最大公約数的な危険を示すもので、108条の重罰の根拠は、別途理解する必要があるという考え方があるように思われます。そして、通説は「公共の危険」が「擬制」されている(=本当はないのに、あるものとして扱っている)と表現している以上、このような考え方を前提としているようです。

しかし、人の生命・身体・財産に対する危険を生じさせ、社会生活を営む一般人に重大な脅威を与えることこそが、「公共の危険」の本質であり、内的な危険を「公共の危険」が包含しない理由は全くないはずです。さらに、抽象的危険犯において前回私が説明しましたように、「現在性」「現住性」「他人所有」であることから「建造物内の人に対する危険」を導き、この内的な危険の存在によって「公共の危険」の存在を肯定する場合は、「擬制」ではなく、「公共の危険」の存在そのものを肯定する方が素直な論理でしょう。「公共の危険」を延焼の危険に限定する理解を採らなかった以上、このように理解することは可能であるはずです。ですので、内的な危険も「公共の危険」に包含すると考えるべきでしょう。108条の重罰の根拠は、内的な危険という「公共の危険」の存在にあるのです。このように理解する場合は、「擬制」という表現は使用してはならず、端的に「公共の危険」の存在を肯定すればそれで足ります。(このブロックは全て私見))

 

(2)現在性と比較した場合の現住性の位置づけ

しかし、現住建造物と現在建造物がこのように同列の扱いであることは自明ではありません。

現在建造物の場合は、「現に人がいる」のですから、その特定の人の生命・身体への危険が(非現在建造物よりも罪が重くなり、かつ殺人と同じ法定刑となるような)罪の重さの明確な理由づけとなりますが、現住建造物の場合は、「現に人が住居に使用し」ていることが直ちに罪の重さの理由とはならないからです。

そこで、一般的には「住居であれば、いつ何時居住者や来訪者が中に入り、放火により生命身体に危険を被るかもしれないことが考慮されている」(香城敏麿「判批」p.249)と説明されています。つまり、不特定の人への生命・身体への危険を考慮していることがお分かり頂けると思います。

ここから、「現住建造物放火罪は、抽象的公共危険犯であるばかりでなく、建造物内部に存在する可能性のある人の生命・身体についても抽象的危険犯とされており、二重の意味で抽象的危険犯性を持つ」(西田典之・『刑法理論の現代的展開各論』p.283)ことになります。

この意味をもう少し説明しますと、「公共の危険の意義(下)」の記事において説明しましたように、現住建造物放火罪においては、「現に人が住居に使用」している建造物への放火行為は、(「建造物内に存在する可能性のある者への危険」という形で「公共の危険」を内包するものと考え、)「公共の危険」が擬制されています。これが、前者の「抽象的公共危険犯」の意味です。そして、「建造物内に存在する者」ではなく、「建造物内に存在する可能性のある者」という形で、建造物内部の危険が抽象的に捉えられています。これが、後者の意味なのです。

cf. この二重の意味での抽象的危険犯性から、西田教授は、「現住性のみが唯一限定的な機能を持ちうるがゆえに、「現に人が住居に使用し」という文言の意義は、かなり慎重に、放火の時点で当該建造物が現実に継続的な起臥寝食の場所として使用されていた場合に限定して解釈されるべきであろう」とされています。これは(本稿①において上述した抽象的な意味での)「住居」の解釈論の続きでして、かなり説得力があるので、判例の定義とは異なる事を自覚しながらであれば、このように「住居」を捉えてもよいと思われます。)

 

(3)まとめ

以上をまとめると、放火の客体が(具体的な事案において、)「住居」であることは、「建造物内部に存在する可能性のある人の生命・身体」に対する抽象的な危険を意味するがゆえに108条の用意した重罰の根拠となるのです。

しかし、この(具体的な事案において)「住居」であるか否かの範囲は、まさしく「建造物内部に存在する可能性のある人の生命・身体」に対する抽象的な危険を認定できるか否かという観点から決まるものであって、一義的に決まるものではなく、この「抽象的な危険」の有無を判断する方法が次回に登場する「物理的一体性」や「機能的一体性」という概念なのです。

また、議論の出発点は(抽象的な意味での)「住居」にあたるかどうかですが、これに該当したとしても、未だ上述の「抽象的な危険」さえ認定できるかどうかわからないので、「抽象的×2」な危険の存在しか認められないのです。

この説明で本稿①(3)の記述の意味は分かって頂けたのではないかと思います。

 

以上が、抽象的なレベルでの「現住性」の議論でした。次回は、「(いわゆる)建造物の一体性」という具体的なレベルで「現住性」を説明していきたいと思います。