因果関係論(中)

因果関係について(中)

 

前回は、因果関係論の基礎事項から始まって、従来型の相当因果関係説が危機に陥っているということを説明しました。

今回は、それに対する相当因果関係説を含めた学説の対応を見ていきたいと思います。

 

④ 相当因果関係説の再構成

 

「予見可能性」という基準では適切な結論を導き得ない事が露呈した現在、相当因果関係説は修正を余儀なくされているのは既に述べたとおりです。修正の方向性は、「危険の創出とその実現」を出発点とすることです。

ドイツの学者(エンギッシュ)の分析によれば、「相当性」の概念は、「行為の相当性」(危険の創出)「因果経過の相当性」(危険の実現)の二つに分類できるといいます。

 

(1)「行為の相当性」(危険の創出)

 

ex.被害者の脳梅毒による脳の高度の病的変化という特殊の事情と相俟って左眼を蹴りつける行為が致死の結果を生じさせた最判昭25・3・31

 

本事案は、蹴りつけるという「行為時点」で、ある特殊事情が存在し、それが結果発生に影響を与えている事案といえますね。

このような事案では、「行為時点で行為に作用した事情」をどこまで考慮するかが相当性判断の中心となるため、「行為の相当性」と呼ばれています。ま た、この判断は行為がどれだけ結果発生の蓋然性を有しているかで判断しますので、「行為の危険性」や「危険の創出」とも呼ばれます。

 

(2)「因果経過の相当性」(危険の実現)

 

ex.頭部を強打するなどして失神させた被害者を大阪南港の資材置場に放置したところ、夜間何者かが被害者を更に殴打したため、被害者の死亡が若干早まったという事案。(大阪南港事件、最決平2・11・20

 

本事案は、頭部を強打する等した行為の「後」に他の事情が介入して、それが結果発生に影響を与えている事案といえますね。

このような事案では、因果関係の確定にあたっては、行為から結果に至る因果関係が相当かどうかの判断が不可欠であるため、「因果経過の相当性」と呼 ばれています。また、因果経過の相当性の判断は、行為の危険性が具体的な因果経過を通じて結果に現実化したか否かの判断ですから、「危険の実現」とも呼ば れています。

 

このように(1)と(2)に分類した上で、どのような事案においても、「相当性」が認められる為には、「行為の相当性」と「因果経過の相当性」の両方が存在する必要があるとするのが、最近の学説の出発点となっているのです。この出発点は、後述するように相当因果関係説においても客観的帰属論においても異なるところはないのです。

 

別の角度から表現すると、今までの判断基底(判断資料)の範囲画定のための「予見可能性」による判断は、(1)には適していますが、(2)において妥当な結論を導く規範を提示できないことが、前述の相当因果関係説の危機でしたね。

そこで、相当因果関係説は「予見可能性」判断の不都合性を自覚して、(2)の場合においては、判断基底論を中心とした「予見可能性」論を放棄し、客観的帰属論の影響を受けながら新たな規範の構築を模索中であるというのが現在の学説状況というわけです。

 

前回、従来型の相当因果関係説で処理すれば大雑把と捉えられかねないといったのは、この点です。「因果経過の相当性」が問題となっているにも関わらず、予見可能性を基準に用いるのは添削者としては首をかしげることとなるのです。

 

では、どのような規範を立てればよいでしょうか。有力と思われる二つの規範を提示しておきます。

 

(1)井田教授の見解

 

井田教授の言葉を借りながら説明すると、行為の現実的危険性が結果の発生によって確証されたものと認めてよい場合のみに既遂不法を限定することこそが相当因果関係の在り方でした。この考え方を前提に、問題となる事例を①行為の高度の危険そのものが具体的結果として直接実現したと見うる場合、②行為は高度に危険であっても、具体的な結果発生の一条件を与えたに過ぎない場合に区別し、①については『死因の同一性』の範囲内で結果の抽象化を肯定し、②については介在事情と結果発生の具体的態様についての予見可能性が相当性肯定の要件である、とする見解です。

 

死因の限度での抽象化というレベルではそれなりに有名な見解ですが、これをそのまま展開するのは至難の業といえそうです。丁寧に論証する場合、なぜ①と②を分けるのかというところを説明するのに骨が折れそうだからです。

 

(2)町野教授、山口教授の見解

 

この見解は、刑法が犯罪を処罰する意味は、犯罪の一般予防にあり、結果を発生させたことにつき責任を問うのは、 それが他の人々にまねをされて、一定の結果の発生に対してふさわしい行為をすることによって利用することを妨げるためだという考え方を前提にします。その 上で、刑法が結果を抑止しようとするなら、利用されるであろうような通常の因果経過の設定を禁止・処罰することで十分であるとして、一般人がそれを利用し て結果を招致するであろうような因果経過が相当因果関係である、とする見解です。

 

一般人の利用可能性を問題にするところにこの説の独自性がありますが、これを展開するのは(1)にも増して、至難の業でしょうね。

 

⑤ 客観的帰属論

 

次に、客観的帰属論に目を移します。

この説も、上述のエンギッシュの「危険の創出」(行為の相当性)と「危険の実現」(因果関係の相当性)の分類を前提にします。

そして、「相当性」という曖昧な上位原理による説明を放棄し、規範的観点から結果の行為への帰属を決定するという基本思想のもとに、事案を類型化します。その上で、それぞれの類型について帰属の下位基準を体系化しながら、結果帰属の基準を解明しようとするのです。

 

具体的な帰属の下位基準は、「客観的帰属論」という言葉が「規範的観点から分析する考え方」という方向性を示す意味しか有しないことからも明らかなように、論者によって区々です。

 

Cf. 一応、客観的帰属論の骨子となる考え方を提示しておきます。

①「危険の創出」の判断にあたっては、「許されざる危険」を創出したか否かがメルクマールとなっています。「許 されざる危険」か否かを判断するということは、行為の危険性があったかどうかの判断に加えて、その行為の危険が「許されうる」か、つまり、行為自体のもた らす利益とのバランスの結果、危険性がいわば「阻却」されるかどうかの判断を行うということです。

②「危険の実現」の判断にあたっては、「行為の危険性が結果に実現された」かが最終的なテーゼですが、それを判断するに当たっては、「規範の保護範囲論」が用いられています。これは、事実的な危険判断(結果を直接生ぜしめるような行為かどうか)と規範的な答責性の範囲の判断(規範の見地から、その行為のしわざといってよいか)との組み合わせによって判断しようとするものです。

 

重要な指摘としましては、「危険の創出」(「行為の相当性」)、「危険の実現」(「因果経過の相当性」)という同一概念を出発点としていることから も分かるように、再構成された相当因果関係説と客観的帰属論の差は、(あまり中身のない事が判明した)「相当性」という上位原理の存在を是認するか否かに しかなく、内実はほぼ変わらないということです。

 

以上見てきましたように、因果関係を判断するにおいて、私は○○説に立つという構成は、あまりお勧めできません。あえて言うなら、井田教授の見解がまだ構成しやすいですが、それとて説得的に論証しようと思えば膨大な量になるでしょう。

 

私としては、当該事案において問題となっている因果関係判断の局面が、「行為の相当性」と「因果経過の相当性」のいずれの局面であるかを明示し、そ の局面の特殊性を軽く述べた後(例えば、「因果経過の相当性」の局面であれば、この局面において、予見可能性判断は意味をなさない。なぜなら・・・)、い かなる説からも承認される本質のみを基準とすればよい(「因果経過の相当性」ならば、行為の危険性が結果に実現されたといえるか)と考えます。あとは、判 例を手本にしたあてはめをすれば良いのです。

 

そこで、次は判例をやや詳細に見ることにします。

 

続く