因果関係論(上)

因果関係について(上)

 

今回は、因果関係論をやや詳しめに検討していきます。条件関係等の基礎事項や、客観説・折衷説といった従来型の相当因果関係説に軽く触れたあと、現在の学説の共通の理解を示します。その上で、判例の立つ考え方を検討し、どのように構成すべきか考えることにしますね。

 

①     基礎事項概説

 

因果関係とは、実行行為と結果との間に要求される原因・結果の関係をいい、結果犯において、発生した結果を行為者の行為に客観的に帰責させるための要件です。因果関係を肯定する為には、条件関係が必要という点に学説上争いはありませんよね。

(条件関係の判断手法には仮定的条件関係公式をはじめとして争いはありますけど、大して重要ではないのでパスします。「実行行為がなければ具体的な法益侵害結果がなかった」かについて判断する仮定的条件関係公式で何の問題もありません。)

 

ここで、因果関係の判断は条件関係判断のみで足りるという説(条件説)がありうることとなりますが、帰責のために必要な限定機能を果たせませんので、支持者はほぼいません。

そこで、条件関係判断の存在を前提に、より適切な帰責の基準を導き出す為に学説は2つの大きな方向性で分かれています。相当因果関係説と客観的帰属論です。

 

②     従来型の相当因果関係説

 

相当因果関係説というのは、因果経過の経験的通常性という意味での『相当性』を条件関係に加えて要求し、法的因果関係の範囲を限定する見解です。

 

しかし、この「相当性」というのが曲者でして、因果経過の「相当性」を判断する為には、当該行為と発生した結果にだけ着目しても、「相当」であるか は判断できないです。(例えば、高速道路で銃をぶっ放して、タイヤに穴が開いたことにより一台の車が制御不能になった結果、玉突き事故が起きて別の車の運 転手が車の衝突で死亡した場合、「銃弾を発射する行為があった」ことと「車に押しつぶされて圧死した」という情報だけで、相当性を判断できませんよね?)

 

そこで、結果が発生するまでの周囲の状況をも検討対象に含める必要があります。ところが、全ての事情を考慮すれば、あらゆる結果の発生は相当となりかねません。なぜなら、現実に結果は発生しているのですから、振り返ってみれば結果は起こりえたと必ずいえるのです。

これでは帰責に必要な限定を果たせませんので、一定程度検討対象(判断資料)を絞る必要がでてくるのです。この判断資料の限定方法に関して、いわゆる客観説と折衷説が対立していますのは既に知っておられる通りです。

 

一応、教科書的な説明をしておきますと、判断資料を絞る方法には、大きく三つ種類がありまして、(1)もっぱら行為者行為当時に認識・予見していた(ないし認識・予見しえた)事情を判断資料とする主観説、(2)行為時に存在するすべての事情および行為後に展開する事情であって一般人の予見可能な事情を判断資料とする客観説、(3)一般人が認識・予見しえた事情と本人がとくに認識・予見していた事情を判断資料とする折衷説です。

 

しかし、この説のいずれかを展開して事案処理を図るというのは、あまりお勧めできません。というか、大雑把に事案を処理しようとしているとの印象を与えかねません。

 

これら3つの見解はすべて、判断資料を一般人に予見可能なものに限っておいて、さらに一般人の見地からその相当性(予見可能性)を問うというのは余 計な思考操作だという批判が厳しく、また、後述のように判断資料の限定は「因果経過の相当性」においては重要な意義を有さない事が明らかとなった為、既に 克服されつつある議論だからです。

 

③     相当因果関係説の危機

 

ex.頭部を強打するなどして失神させた被害者を大阪南港の資材置場に放置したところ、夜間何者かが被害者を更に殴打したため、被害者の死亡が若干早まったという事案。(大阪南港事件、最決平2・11・20


まず、従来型の相当因果関係説によってこの事案を処理してみましょうか。強打行為という「行為」の「後」に被害者が更に殴打されたという異常事態が発生している為、客観説に立っても折衷説に立っても(行為者は予見していなかった為、)「一般人に予見可能か」が判断資料として取り込むかどうかの基準になりますよね。

そして、大半の見解によれば、行為後、更に誰かに故意に殴打されるような異常事態は「予見可能」ではないこととなり、何者かの殴打行為は判断資料には含まれ得ません。

そこで、「強打」行為によって結果が発生したことの「相当性」を判断することとなります。

どう処理しますか?

強打行為によって死因が形成されたのだから、死亡結果への因果の流れを作り出したのは強打行為といえるため相当、としますか?

それとも「結果」とは、若干早まった時間に死亡したという具体的な結果をいうのですから、その結果と強打行為との間に相当性はない、としますか?

 

どちらもありえますね。けど、どちらもありうることが問題なのです。

 

表現しなおしますと、「相当性」は曖昧な概念(平野教授「あり得ない訳ではない程度の可能性」多数説「異常では ないこと」)であり、判断に迷うような本事案のような場合に、この基準からは因果関係肯定の判断も否定の判断も出来てしまうのです。そして、「予見可能」 かどうかという基準も「可能」かという曖昧な判断を含む上に、本事例で明らかなように因果関係の判断の本質的な要素ではないのです。つまり、判断基底論を 前提とした「相当」性の判断では、「裁判実務の使用に耐えうる基準を提供できていない」ことが露見しました。これが「相当因果関係説の危機」です。

 

肯定否定どちらも導けるような基準をあてはめて、結論を出したところで、その結論はあてはめた者がこっちにしたいと思った!というだけの意味しか持 たないですよね。基準に説得力がなければ、導いた結論にも何の説得力もないわけです。それでは国民の信頼の上に成り立つ裁判制度はやっていけません。

 

したがって説得力のある新たな基準が求められている訳ですが、それについては次回にします。

 

続く