公共の危険の認識の要否
前回までに詳述した「公共の危険」の意義に関する理解を前提に、公共の危険の認識が必要か否かについての議論を今回は説明します。なお、今回の議論の対象は、基本的には明文規定のある具体的危険犯のみですが、抽象的危険犯においても不文の「公共の危険」要件を読み込む有力説からは、抽象的危険犯にも妥当する議論という事になります。
① 「公共の危険」の意義
最初に、「公共の危険」の認識を論じるにあたって必要な範囲で前回までの議論をおさらいします。
「公共の危険」は、「不特定または多数人の生命・身体・(軽微ではない)財産に対する危険」と定義できましたね。そして、ここでいう「危険」は、延焼の危険が中心である事は疑いありませんが、煙や有毒ガス等による危険も想定されるため、そのように限定する必要はない、という話を前回しました。
この「危険」の範囲について、
❶「公共の危険」を延焼の危険に限定する考え方
❷「公共の危険」を延焼の危険に限定しない考え方(上述の考え方)
・・・の二つが登場していましたね。この点が、この先理解していく上での前提知識です。
② 「公共の危険」の認識
(1) 学説の多数説(認識必要説)
この点、学説の大半は、責任主義の観点からは、犯罪の客観的構成要素に対応する主観的認識が犯罪成立に必要である事は当然であるとして、「公共の危険」の認識は必要と理解しています。
では、「公共の危険」の認識が必要であるとして、「公共の危険」の認識とはどのような内実を有するのでしょうか。
(1-❶)「公共の危険」を延焼の危険に限定する考え方
この点、「公共の危険」を延焼の危険に限定する考え方を前提とすると、「公共の危険」の認識がある状態というのは、素直に考えれば延焼の危険の認識がある状態をいうことになります。
ところが、他の物件への延焼の危険の認識があるということは、当該他の物件への放火の(少なくとも未必の)故意も包含することになりそうです。
例えば、現住建造物の近くに置いてあるバイクに放火する際、現在建造物へ延焼するという認識があったのであれば、それは110条の問題ではなく、現在建造物への放火として108条の問題とすべきようにも思える訳です。
もしこのように言えるとすれば、109条2項物件や110条物件に放火して、「公共の危険」の認識がなければ建造物損壊罪、器物損壊罪にとどまるし、「公共の危険」の認識があれば、当該延焼する他の物件への放火罪の成否が問題となるため、109条2項や110条が成立する局面が極めて限られてしまうことになります。
ですので、この前提に立つ場合は、「公共の危険の認識」=「延焼の危険の認識」=「他の物件への放火の故意」という図式のどこかを崩さなければなりません。
谷口正孝判事は、最判昭和59・4・12において「危険の予見と延焼の予見とが論理上区別できることは否定し難いところであり、その具体的内容としては、『公共の危険発生の予見はあるが、延焼を予見することのない心理状態』すなわち、放火行為により『一般人をして延焼の危惧感を与えることの認識』と考えてよいと思う」と意見を付されています。
これは、「公共の危険」とは、物理的客観的な危険であることを要しないもので、心理的客観的な危険であるのに対し、「延焼の危険」とは、物理的客観的な危険をいうため、「公共の危険」≠「延焼の危険」ゆえに「公共の危険の認識」≠「延焼の危険の認識」とする見解です。
(cf. ①で説明しましたように、「危険」の範囲としては、「公共の危険」は延焼の危険に限ると❶の立場は理解していますが、「危険」の判断基準としては、「公共の危険」と延焼の危険は必ずしもこの立場から一致している必要はないわけです。「危険」の判断基準については、前々回の記事をご参照ください。)
また、福田教授は、『刑法の基礎知識(2)』p.177において、自己所有の小屋に火をつければ人家に延焼する可能性が無い訳ではないことを認識していたが、ちょうど風が人家の方から小屋の方向に吹いており、風下に人家は全くなかったので、人家に延焼することはないと確信して火をつけたような場合には、公共の危険の認識はあるが、放火の故意としての延焼の具体的認識はないとされています。
これは、「公共の危険の認識」=「延焼の危険の認識」ではあるが、「延焼の危険の認識」≠「延焼の具体的認識(=放火の故意)」であるため、結局「延焼の危険の認識」≠「他の物件への放火の故意」とする見解です。
後者の説明の方がまだ論証しやすいとは思います。
しかし、どちらにせよ、上述のような説明の存在にも関わらず、「果して、そのような心理状態が存在しうるかはかなり疑わしい」(西田典之・『刑法理論の現代的展開』p.293)との評価がなされています。実際に事案を分析する際に、このような微妙な認定が求められるような論証をするのはあまり得策ではないでしょう。
(1-❷)「公共の危険」を延焼の危険に限定しない考え方
これに対し、❷の立場からは処理が明快です。
上の図式でいうと「公共の危険の認識」≠「延焼の危険の認識」が議論の前提となっているため、「公共の危険の認識」の存在について疑義が存在しないからです。
この立場からは、「公共の危険の認識」とは、「延焼の認識・認容がなくとも(またはそれが証明できなくても)、付近の人々が退避しまたは消火活動を開始することを強く動機づけられるような状態が生ずることを認識・認容」(井田良「放火罪をめぐる最近の論点」阿部純二ほか編『刑法基本講座第6巻各論の諸問題』p.187)といえるのです。
認識必要説に立つのでしたら、この立場が最もおススメです。
(2) 判例(認識不要説)
判例は、学説の大半の反対にもかかわらず、「110条1項の放火罪が成立するためには、火を放って同条所定の物を焼燬する認識のあることが必要であるが、焼燬の結果公共の危険を発生させることまでを認識する必要はない」(最判昭和60・3・28)という立場を確立しています。
その理由づけとしては、判例は何も言及していませんが、110条1項の「よって公共の危険を生じさせた」という文言から、同条を結果的加重犯と理解し、重い結果である「公共の危険」についての認識は不要であると解しているようです。
論証するとすれば、以上の情報で事足りるのですが、認識不要説の実質的論拠をもう少し(判例の立場を『放火罪の理論』において精密に分析されている)星周一郎准教授の言葉を借りながら説明してみたいと思います。
まず、詳しくは「放火罪の既遂時期」の論点として別途取り上げますが、「焼損」に関する判例の独立燃焼説は、「焼損」を「公共の危険」の徴表として理解します。これは、客体が、(媒介物の燃焼とは区別される形で)独立して燃焼しているかという事実判断にとどまらず、「実際には、燃焼の一定程度の継続性や発展性、火勢の強さが存在したという要素がかなり含まれている」(星周一郎『放火罪の理論』p.247)という分析です。
このように「焼損」を理解するならば、「放火行為の認識それ自体に、「公共の危険の発生については予見があるが、延焼の具体的認識を欠いている心理状態」と同等の心理状態の存在を認めることができる」(星周一郎・西田ほか編『刑法判例百選(第6版)』p.177)のです。
つまり、「焼損」の認識には、一定程度の「公共の危険」の認識は含まれているので、別途「公共の危険」の認識を要求しなくとも責任主義には必ずしも反しないのです。
ここまで論証する必要はありませんが、「焼損」について私は星准教授の(独立燃焼説に立ちながら難燃性建造物にも対処できる)考え方をおススメしますので、それと整合性をとる形でこのように論証できたら大きな加点になると思います。
(cf. 星准教授の主張する「焼損」の考え方を採ったからといって、認識必要性に立っても矛盾はおそらくしません。「焼損」の外に「公共の危険」が別途具体的危険犯においては明文の要件として要求されているのですから、様々な危険についての認識が、「焼損」の認識と「公共の危険」の認識に分散されることになるだけです。ただ、どの危険の認識がどちらに分散されるかを説明するのは難しそうです。ですので、「公共の危険」の認識不要説に立った方が、筋が通る上、無難だと言えそうです。)