不作為と共犯について
「不作為と共犯」というのは、犯人が複数いて共犯関係が問題となっており、かつ、少なくとも一人が実行行為を不作為によって行っているという事案の総称です。
「不作為と共犯」というカテゴリーで問題になる局面は、大きく分けて二つです。一つは、「不作為による共犯」で、もう一つは、「不作為犯に対する共犯」です。
ex.甲が、甲の息子AがBによって射殺されそうなのを阻止しなかったため、A死亡
この事案のように、他人の犯罪行為に、阻止しないという不作為の形で関与するのが、「不作為による共犯」です。「不作為と共犯」の論点のメインはこの局面です。
ex.甲が、Aをそそのかし、不退去罪実行の決意をさせた
この事案のように、他人の不作為犯に関与するのが、「不作為犯に対する共犯」です。こっちはメインではないので、先にこっちの処理方法を見てみましょう。
① 不作為犯に対する共犯
ex.池で溺れているAを救出しようとしているAの親乙に対し、隣家の甲が、Aを救助しないよう唆し、乙が救助せずA死亡
乙に殺人罪の不作為犯が成立するのはいいとして、甲に殺人罪の不作為犯の教唆犯が成立するでしょうか。
ここで、問題となっているのは、(甲はAの親ではないですから)甲にAの生命を保護すべき作為義務は無い、という事をどう処理するのか、という点です。
この点については、不真正不作為犯についても作為義務を有する者のみに成立する真正身分犯であると解し、「共犯と身分」の問題として処理するのが、 明快でしょう。このように構成した場合、通説・判例からは65条1項を経由させて、甲の不作為犯の教唆犯成立を肯定することになります。
② 不作為による共犯~問題意識~
次に、「不作為による共犯」の処理を見ていくことにしましょう。こちらは少し詳しめに見ていくことにします。
「不作為による共犯」で問題となっているのはいかなる点でしょうか。それは、作為犯が作出した法益侵害結果への因果の流れに対して、不作為で関与した者について、正犯とするのか共犯とするのか、という点です。
一番上の設例でいえば、直接引き金を引くことによってAを射殺したのはBで、甲は現実に生じた事象の因果の流れには関与していません。しかし、不真 正不作為犯を肯定する以上、作為義務のある者の不作為に実行行為性を認めることになります。つまり、親であり作為義務のある甲の不作為は、199条の構成 要件該当性が認められうるわけですが、果たして199条に直接問擬すればよいのか、それとも共犯によって修正した後の構成要件該当性を考慮すればよいの か、がまず問題となってくるのです。
③ 不作為による共犯~処理方法~
では、学説はどう考えているでしょうか。
(1) 機能説(中、山中教授ら)
この説は、不作為による共犯として問題となる局面は、不作為者が正犯となる場合と共犯になる場合と二つあるといいます。そして、その分類は、作為義務の違いに求めるのです。
山中教授の言葉を借りて説明すると、作為義務について、法益保護義務と危険源管理監督義務を分け、危険源管理監督義務のうちの犯罪阻止義務に違反した場合には、不作為の従犯ですが、法益保護義務に反した場合には不作為の正犯だと考えることになります。
ex.父親甲は、自分の15歳の息子Aが第三者Xを殺害するのを阻止できたのに阻止しなかった為、Xが死亡した。
これが、危険源管理監督義務の例です。
ex.父親甲は、第三者Xが息子Aを殺害するのを阻止できたのに阻止しなかった為、Aが死亡した。
そしてこれが、法益保護義務の例です。
つまり、作為義務に、「行為者との関係より発生するもの=犯罪阻止義務」と、「法益との関係で発生するもの=法益保護義務」の二つがあるとし、前者は従犯を基礎付け、後者は原則的には正犯を基礎付ける、とするのです。
とても明快な処理ができ、構成しやすい説と思われます。
しかし、学説の多数は、作為義務の区別が正犯と従犯の区別を意味するということは認めていません。
その理由は、神山教授の言葉を借りると、刑法上の保障人義務は、どのような関係から導かれようと、最終的には結果の発生を阻止することに向けられる ことに本質があります。そうならば、義務の由来の相違によって保障人義務違反に法的差異を見出す考え方には合理的根拠は無い、といえるからです。
(2) 原則従犯説(神山、大塚、大谷、曽根教授その他)
この考え方は、遡及禁止論を出発点として、規範的・価値的評価の観点から両者を区別します。
遡及禁止論とは、構成要件的結果を認識して惹起する自由な行為の背後の行為については、構成要件的結果は正犯には帰属されない、とする考え方をいいます。標語的に言うと、「正犯の背後に正犯なし」です。
即ち、「不作為による共犯」の議論では、結果を直接惹起した作為正犯者の存在を予定していますよね。法は、一次的には、その作為正犯者に対して禁止規範として、作為をやめるよう要請しているのです。
そして、その背後に責任非難に値する不作為があったとしても、その者にまで遡及して正犯とする必要はありません。なぜなら、その不作為者には、あくまで二次的に「法益の侵害を防止せよとの規範命令が発せられる」に過ぎないからです。
従って、作為者が存在する結果として、不作為者に対して刑法から向けられる規範が弱められ、従犯を基礎付けるほどの規範しか刑法は与えていない、とするのです。
刑法のこと理解しているのだということを一番アピールしやすい見解だと思われます。実際にどのように構成するかといえば、実行行為の有する危険性が類型的に低く、「作為による幇助犯」と等置しうる程の危険性しか有しない、と言っていくことになるのだと思います。(私見)
Cf. かなり細かい話になりますが、この説もさらに二つに分かれます。この二つは、「作為者の行為終了後にさらなる作為義務違反が認められる場合」の処理が異なるのです。
ex.父親甲が、第三者Xが甲の息子Aを川の中に突き落として逃げ出したのを見て見ぬ振りをしていた為、Aが溺死した
神山教授や松宮教授は、この場合、すなわち規範名宛人たる作為者による法益侵害を防止しない保障人の場合、作為者が行為終了後、行為現場から立ち去った後で あるとかに関係なく、不作為による幇助として統一的に理解される、とされます。つまり、一度発せられた命令が変更されることはない、とされているのです。そのため、Xが逃げ出した後、甲とAが二人きりになったとしても、甲には二次的な命令しか与えられないこととなり、甲には従犯しか成立しません。
他方、曽根教授や内田教授は、規範命令の優先順位は、事態の具体的状況に応じて時々刻々と変化するものであるとされます。作為者が現場を立ち去った後においては、そこに不作為者の本来の意味での排他的支配が認められるのであって、保障人である不作為者に対して、正犯を基礎付ける第一次的な規範命令が発せられたとみるべき、とされるのです。この考え方からは、Xが逃げ出した後、甲がAと二人きりになったのであれば、その時に正犯を基礎づける一次的な命令が発せられており、甲に正犯が成立することとなります。
(3) 実質説(前田、西田、林教授その他)
この説の出発点は、被害者の法益に対する危険が、①自然力(又は刑法上無責の者)によって作り出された場合でも、②他人の故意行為によって作り出された場合でも、法益保護という点で保障人がなすべきことは同じである、ということにあります。
ex.洪水で氾濫寸前の川に近づく息子を、殺意を持って放置する行為
ex.第三者Xが息子Aを、川を決壊させることで殺害しようとするのを、殺意を持って放置する行為
上記二事例のどちらでも、親としては、息子を守るために川へ近づかせないことが法によって求められているのであり、他人の故意行為を殊更特別扱いし て、一次的な命令か二次的な命令かを分けることに意味はないと考えるのです。こう考えると、今までの説のように「不作為には自然的に見て因果設定力は無 い」「他人の故意行為が直接結果を惹起した」という特殊事情を、類型的に特別扱いする必要はなくなります。
そうすると、正犯と共犯の区別は原則に戻ることになります。原則とは、通常の作為犯で想定してきた、共同正犯と幇助犯の区別です。
共謀共同正犯を認める見解からすると、「重大な寄与」や「正犯意思」を区別基準として用いることになるのでしょう。
とても有力な見解ではありますが、司法試験の答案戦略という局面に限っていえば、微妙かもしれません。なぜなら、作為犯の場合と完全に同視するため、不作為犯であるという特殊性を解答者が分かって書いているのかどうかは、添削者には伝わらないからです。
以上が、学説の力を借りた実際の処理方法です。個人的には、原則従犯と考えるのがお勧めです。