現在の精神状態に関する供述について
今回は、伝聞法則シリーズ第3弾として、現在の精神状態に関する供述を見ていきます。今回の内容は、前回の内容である非伝聞の応用に位置付けられると思います。
① 現在の精神状態に関する供述とは
現在の精神状態に関する供述というのは、例えば、強姦か和姦か争われている事例において、「Aが『甲は嫌いだ』というのを聞いた」という内容のBの証言を、Aが当時甲に対して嫌悪感を抱いていたことを要証事実として用いる場合のように、原供述者(A)の現在の内心の状態を伝える公判廷外の供述ないし言葉が、他の者の公判廷供述によって公判に顕れるような場合をいいます。
(cf. あくまで上の例でいうと「Aが甲に対して嫌悪感を抱いていたこと」が、要証事実として証拠価値を有する場合を前提とします。そうでなければ、前回の「非伝聞」の中で論じたとおり、事実認定を誤らせる危険は依然として存在するため、伝聞法則の潜脱となり、証拠として許容するわけにはいかないからです。)
(cf. また、原供述者Aの「現在(=発言時)の」内心の状態の供述であることを前提としています。少し議論の先取りになってしまいますが、「Aが『昔甲は嫌いだった』というのを聞いた」というような「過去の」内心の状態の供述は、「現在」(=発言時)のAが、自身の過去の心理状態を正確に記憶していたかのチェックも必要であるため、問題なく「伝聞証拠」にあたるものと解されています。
ちなみに、発言時を「現在」と呼んでいることに注意してください。当然、公判期日時ではありません。ですから、「過去」というのは、発言時よりもさらに前を指しています。)
② 議論の焦点
では、現在の精神状態に関する供述の何が問題となっているのかについて説明していきます。
現在の精神状態に関する供述は、前回議論した非伝聞か否かの基準にあてはめますと、原供述を、その内容のとおりの事実(すなわち原供述者の当時の心理状態)の立証に用いる訳ですから、要証事実との関係からして、(広義の)供述証拠をその内容の真実性に用いていると考えることができますので、「伝聞証拠」にあたるといえそうです。
他方、伝聞法則の根拠は、各過程に対するチェックの必要性にありましたが、心理状態に関する供述というのは、心に浮かんだことをそのまま口に出しているだけですので、知覚→記憶→表現・叙述のうちの、知覚→記憶の過程を経ていません。つまり、伝聞法則の根拠がそのまま妥当する局面であるとはいえないのです。この点を如何に考えるのか、というのが、ここでの議論の焦点です。
③ 考え方
(1) 伝聞説
一つの処理の方法としては、現在の精神状態に関する供述は、「伝聞証拠」であることを前提に、知覚→記憶の過程を経ていなくとも、表現・叙述の過程に対するチェックは必要なのだから、伝聞法則が適用されると考える考え方がありうることとなります。しかし、現在の精神状態に関する供述(とりわけ当時の本人の供述)は、人の心の状態を立証するにあたって、最良の証拠であるため、これを一律に排斥するという結論に賛同する者は今ではほとんどいないようです。
(2) 伝聞例外説
そこで、現在の精神状態に関する供述は、「伝聞証拠」であることを前提に、(321条以下の伝聞例外規定では、現在の精神状態に関する供述を伝聞例外と位置付けることはできないため)特信情況が存在し、証拠とすることの相当性が認められる場合には、明文無き伝聞例外を認め、証拠能力を肯定すべきという見解が主張されています。しかし、明文無き伝聞例外を認めるのは、かなりの勇気がいりますので、試験で採用するには全くおすすめできません。
(3) 非伝聞説
このように、伝聞という結論は避けたいが、伝聞例外とするのは躊躇われるため、非伝聞とするのが通説・実務です。
もっとも、非伝聞という結論を導く方法は大きく分けて2通りありまして、これらを混同しないことが大切であるように思います。
(3-1)通説の考え方
通説によれば、精神状態に関する供述は、供述内容の真実性を立証する場合でも、知覚→記憶という過程がないので、伝聞ゆえの危険が小さい以上、「伝聞証拠」として扱う必要がないといえます。もっとも、表現・叙述の過程、すなわち供述の真摯性がなお問題となりうるのですが、これは(伝聞)供述者に対して原供述を聞いた際の状況や原供述者の態度等について尋問することにより十分に確かめられ、この点については一般的な関連性の問題として扱えば足りる、と説明されています。
供述内容の真実性を立証事項とするにもかかわらず、供述過程の一部が欠けるから「伝聞証拠」とはいえない、という説明は、「伝聞証拠」の定義との間に矛盾を生じさせるようにもみえるため、もしこの見解を採るのであれば、精神状態に関する供述が問題となる場合は、「伝聞証拠」を定義するのは避けた方が良いかもしれません。
(cf. つまり、上述のような考え方からは、伝聞証拠か否かは、供述過程に実質的な危険性があるか否か(=知覚・記憶の過程を経たか否か)が基準となるのであり、「供述内容の真実性を立証事項とするか否か」は、メルクマールではなくなっているわけです。これでは、伝聞証拠の定義は、「定義」としての体をなしていないのです。)
(cf. 「伝聞証拠」の定義にあたるのは明らかであり、伝聞法則の適用を排除したいのですから、(「非伝聞」とは異なる内実を持つ「伝聞不適用」という概念の存在を肯定する場合、)「非伝聞」ではなく、「伝聞不適用」の一局面であると解することはできないのでしょうか。前回定義しました「伝聞不適用」の概念は、おそらく、反対尋問権の行使が無意味か又は必要ないような局面は「伝聞法則」の趣旨がそのまま妥当しないため、「伝聞例外」とは別に特別扱いしようとしたものです。ここでも、原供述者に対する反対尋問をしても、原供述者が当時心から湧き出た言葉を、記憶を介さずに発したのですから、現在も原供述者の記憶に残っているともあまり思えないため意味がなく、反対尋問権の行使が無意味として、(狭義の)供述証拠ではあるが伝聞法則が適用されない「伝聞不適用」の一局面と考えることはわりと無理がないと思うのですが。これは完全な私見ですので、聞き流して頂いて結構です。)
(3-2)判例の考え方
もう一つの考え方は、「②議論の焦点」で示したような、原供述内容の真実性を立証しようとしていると考えることがそもそも間違いだと考えます。どういうことかというと、現在の精神状態に関する供述は、供述の存在から原供述者の内心を推認するのであり、内容の真実性ではなく、原供述の存在自体を立証するのであるから、「非伝聞」の典型的な場面であり、「伝聞証拠」にあたらないのは当然であるため、伝聞法則は適用されないと考えるのです。このように考えることが出来るのだとすれば、「伝聞証拠」の定義とも何ら矛盾しないこととなります。
しかし、前回「非伝聞」で述べましたように、このように、供述内容の存在自体を要証事実として、その事実から供述の内容をなす事実を推論するような要証事実の設定、推論の仕方こそ伝聞法則の潜脱の典型的な一場面ですので、よほど説得的に論じられない限り、試験で採用した場合、伝聞法則に対する理解を疑われかねませんので、あまりおススメできません。
結局、一言でまとめると、おススメは(3-1)ですが、「伝聞証拠」の定義を書かないように注意する必要があるということです。
④ 判例
(1) 米子強姦致死事件(最判昭和30・12・9)
犯人性が争われている強姦致死事件において、被害者が生前「あの人はすかんわ、いやらしいことばかりする」と述べていたことを伝える第三者の証言の証拠能力が問題となった事案で、判例は、「同証言が右要証事実(犯行自体の間接事実たる動機の認定)との関係において伝聞証拠であることは明らかである。従って、右供述に証拠能力を認めるためには刑訴324条2項、321条1項3号に則り、その必要性並びに信用性の情況保障について調査するを要する」としています。
※ 強姦か和姦かではなく、犯人性が争われている事件である事に留意しておいてください。
これを分析しますと、「あの人はすかんわ」という部分が、嫌悪感を表明していますので、精神状態に関する供述です。ですから、もしこの部分が証拠として許容されたと読むのであれば、判例は伝聞法則の適用を認めていますので、伝聞説に判例は立っていることとなります。
しかし、そうではありません。「あの人はすかんわ」との嫌悪の情のみでは、要証事実たる犯人の強姦への動機に対して推認力がなく、自然的関連性がありません。
判例が問題としているのは、「いやらしいことばかりする」という供述だけであって、過去にいやらしいことばかりしていたという過去の同種事実の存在によって、「今回も」という形で動機を推認しようとしているのです。そして、この推認は内容の真実性に関わるものですので、かかる供述が「伝聞証拠」であることは明らかです。
そうだとすれば、この事件で問題となっ た、「あの人はすかんわ、いやらしいことばかりする」という供述は、「あの人はすかんわ」という部分に何らの意味もありませんので、今回取り上げている 「現在の精神状態に関する供述」という問題ではないこととなるのです。従って、この判例は「現在の精神状態に関する供述」の先例たりえません。
(2) 白鳥事件(最決昭和38・10・17)
本件事件の訴因は多数ありますが、今回に関係するところだけ抜粋しますと、白鳥警部が何者かに射殺された殺人事件において、被告人の「白鳥はもう殺 してもいいやつだな」との原供述を伝える第三者の供述の証拠能力が問題となった事案です。実名は少し怖いので、名前は記号に置き換えることにします。
判例は、「被告人Aが、B社宅で行われた幹部教育の席上「白鳥はもう殺してもいいやつだな」と言った旨のCの検察官に対する供述調書における供述記 載・・・は、被告人Aが右のような内容の発言をしたこと自体を要証事実としているものと解せられるが、被告人Aが右のような発言をしたことは、Cの直接知覚したところであり、伝聞供述であるとは言えず、同証拠は刑訴321条1項2号によって証拠能力がある旨の原判示は是認できる。」としています。
この判例を分析しますと、「白鳥はもう殺してもいいやつだ」という発言は、原供述者たる被告人Aのその時点での認識をそのまま表明しているだけの発言ですので、今回の「現在の精神状態に関する供述」の範疇です。そして、判例は、発言自体が要証事実と捉えており、これは同発言をしたこと自体が、同被告人Aの白鳥課長に対する内心の敵意の存在という事実についてこれを推測せしめる間接事実として、要証事実とされていると理解できますので、結局判例は(3-2)の考え方によって、非伝聞という結論を導いているものと考えるのが素直です。
もっとも、前述のように(3-2)の考え方には批判が多く、(3-1)の考え方によっても、同発言は、「殺してもいいと思うほどの敵意を白鳥に対し て持っている」という内心の状態を述べたものと評価したうえで、知覚→記憶の過程がないため非伝聞という結論に持っていけるため、試験においては(3-1)の考え方でよいと考えます。