弾劾証拠について
伝聞法則第5弾となりました。今回は、弾劾証拠を取り扱います。今回取り扱う、「弾劾証拠」に関して通説(限定説)の立場からすると、弾劾証拠も非伝聞に位置付けられるため、伝聞例外の各論を取り扱う前に取り扱ってみました。
① 弾劾証拠とは
刑事訴訟法328条は、「321条ないし324条の規定により証拠とすることが出来ない書面又は供述であっても、公判準備又は公判期日における被告人、証人その他の者の供述の証明力を争うためには、これを証拠とすることができる」としており、これは弾劾証拠を許容した条文と解されています。そこで、この条文から、弾劾証拠とは、公判準備又は公判期日における被告人、証人その他の者の供述の証明力を争うための証拠、と定義を作れることとなります。
② 「証拠」の対象範囲
320条は、「第321条乃至第328条に規定する場合を除いては・・・供述を証拠とすることはできない」と伝聞法則を規定しているわけですから、328条は、伝聞例外の規定として条文上位置付けられています。もっとも、328条は、他の伝聞例外の規定とは異なり、特定の目的のためにのみ証拠能力を認めるという形式で規定されているため、このように解さない余地もあります。
そこで、この規定は非伝聞についてのものか、伝聞例外についてのものかが争われていまして、それに伴って、328条が対象としている「証拠」の対象範囲も異なってきます。
(1) 限定説(通説・判例)
この点、328条は伝聞例外ではなく、(広義の)供述証拠の非供述的利用についての注意規定であり、非伝聞に位置付けられていると読むのが通説です。こう読むと、「証拠」とは、証人等が公判等で述べる供述と矛盾する供述を、当該本人が公判廷外でしている場合の供述、いわゆる自己矛盾供述に限られることになります。
なぜなら、自己矛盾供述による弾劾の場合は、同一人が前後で矛盾する供述をしていることそれ自体によって、公判廷供述の信用性が減殺されるということであり、これは公判廷外供述の内容の真実性に関わっておらず、供述証拠の非供述的利用の一場面といえますし、反対に、自己矛盾供述による弾劾以外の場合において、(他の前提条件なしに)被告人の供述の存在それ自体が要証事実として機能する場面は想定できないからです。
判例(最判平成18・11・7)も、「刑訴法328条は、公判準備又は公判期日における被告人、証人、その他の者の供述が、別の機会にしたその者の供述と矛盾する場合に、矛盾する供述をしたこと自体の立証を許すことにより、公判準備又は公判期日におけるその者の供述の信用性の減殺を図ることを許容する趣旨のものであり、別の機会に矛盾する供述をしたという事実の立証については、刑訴法が定める厳格な証明を要する趣旨である」と明言しており、限定説に立っていることは明らかです。
(2) 非限定説
これに対し、328条は、「第321条乃至第324条の規定により証拠とすることが出来ない書面又は供述であっても」として、伝聞例外の規定である321条~324条のみでは不都合が生じるためそれを修正する、というように、あくまで伝聞例外の枠内であるかのような形で規定されており、328条が320条に よって伝聞例外に位置付けられていることもあわせて考えると、伝聞例外の規定と読む考え方も十分成り立ちます。この見解からは、「証拠」とは、自己矛盾の供述に限る必要は無く、証明力を争う証拠ならば、広く伝聞証拠を使用できることとなります。
(3) 片面的構成説
また、田宮先生の見解ですが、伝聞例外と捉えたうえで、検察官側が弾劾する場合、自己矛盾供述以外は、憲法37条2項の被告人の証人審問権に抵触するから328条はその限度で無効となるため、結局、提出しうる証拠は一般には限定されないが、検察官提出の証拠は自己矛盾供述に限られるとする見解もあります。
これは説得的に論証できるのなら、憲法の証人審問権との関係も論じられますし(もちろん、「反対尋問を経ること」は証人審問権が保障しているとする説に立つ必要があります)、意外に使える説である気がします。ただ、最判平成18・11・7が限定説を明言したことにより、実務が完全に固まってしまっていることも考えると、おとなしく限定説をとっておくべきであるとも思います。
(cf. 近時の堀江先生による片面的構成説は、非伝聞と捉えたうえで、憲法37条2項の証人審問権を「反対尋問権を行使する状況を作り出すこと」をも含めたプロセスとして保障しており、被告人には伝聞証拠を用いて供述証拠を吟味する権利があるものと解し、刑訴法328条の解釈として、被告人側による弾劾の場合は、自己矛盾供述の非伝聞的利用のみならず伝聞証拠の利用をも要請されるとするようです。これはこれで筋が通っているなぁと思います。憲法の証人審問権との関係は、詳しくは「伝聞法則総論」で論じていますので、そちらを参照ください。)
③ 「証明力を争う」の意義
この点、限定説によれば、同一人の供述が矛盾している事実自体によって、当該供述人の公判廷供述の証明力が自ずから減殺されるとの論理に立つ以上、「証明力を争う」とは証明力を減殺する場合に限られ、それを増強する場合は含まれない、と解されています。これは、公判廷外に一致供述が存在しても、そのこと自体では証明力は増強されないと考えられるからです。
もっとも、回復証拠(=公判廷での供述が自己矛盾供述で弾劾された後、弾劾された側は公判供述と一致する供述を提出した場合)は許されると解されています。これは、この場合の(公判廷供述との)一致供述は、相手方の弾劾証拠に対する弾劾であり、結果として公判供述の証明力が回復しうるから、といわれています。
ここでの説得的に論証するポイントは、一致供述の存在自体によって、証明力が増強されることはない、という前提をはっきり明言することだと思います。
また、光藤先生は、公判廷供述がなされる「以前の」供述でなければならないとされますが、同一人の矛盾供述が存在すること自体が証明力を減殺する作用をもたらす以上、自己矛盾供述の時間的先後を問わないとする見解が実務では有力らしいですし、この方が論理的であると思います。
以上で、弾劾証拠についての検討を終えます。
なお、自己矛盾供述を立証するに際し、厳格な証明が必要か、自由な証明で足りるのか問題となっています。自己矛盾供述の立証は、供述の信用性つまり は証拠の証明力に関する事実の立証であり、補助事実の立証です。補助事実の立証について、通説は厳格な証明が必要としているので、独立して問題設定する必 要もなく、この点を指摘すれば足ります。
これに対し、補助事実の立証について、通説の立場とは異なり、自由な証明で足りると解した場合には、論理的に筋を通すために色々問題となるようです。もし通説の立場とは異なり、自由な証明で足りるという立場の方は、事例研究刑事法Ⅱのp.619~p.621の一読をおすすめします。