放火罪の既遂時期

放火罪の既遂時期

 

放火罪の第7弾として、既遂時期を取り上げます。最終テーマです。「公共の危険」と「焼損」の関係及び難燃性建造物への対処が今回のポイントです。

 

     放火罪全体の既遂時期

 

放火罪は、108条、1091項の抽象的危険犯と1092項、110条の具体的危険犯に分類できましたよね。

このうち、「公共の危険」という明文規定のある具体的危険犯においては、「焼損」と「公共の危険」の両方が認められた段階で既遂に達するという理解が通説です。

しかし、「公共の危険」という明文規定が存しない抽象的危険犯においては、明文上は「焼損」のみが未遂既遂を画する概念なので、「焼損」が認められた段階で既遂に達するという理解が通説ですが、公共危険罪という放火罪の罪質から「公共の危険」が要件となる事を導きだし、「焼損」と「公共の危険」の両方が認められた段階で既遂に達するという有力説が存在します。

そこで、以下では抽象的危険犯に的を絞って説明していきたいと思います。

cf. その他、公共危険罪という放火罪の罪質からは、具体的危険犯においても抽象的危険犯においても「公共の危険」のみが既遂時期を画する概念であるという主張も有力ですが、「焼損」という文言を無視する訳ですから論証に説得力を持たせるのが難しく、あまりおススメできないため、ここで紹介するにとどめておきます。)

 

cf. 既遂時期に「公共の危険」をも要件とするかというこの議論は、「公共の危険の意義(下)」で述べた、抽象的危険犯においても「公共の危険」が要件と考える(有力説)のか、「公共の危険」が「擬制」されていると考える(通説)のか、という議論とパラレルに考えるべき問題です。通説からは、当然「焼損」のみが要件となりますし、有力説の中でも「公共の危険」を違法要素と考える立場からは、「焼損」のみを要件とすべき事になりそうです。(大塚裕史『刑法各論の思考方法』p.433参照))

 

     抽象的危険犯の既遂時期

 

(1)従来の議論

 

「公共の危険」を要件に加えるか否かに関わらず、「焼損」が要件である事には変わりありませんので、まずこの「焼損」の意義を把握する必要があります。

 

 

公共危険犯の側面重視

財産犯の側面重視

論理的帰結

独立燃焼説

効用喪失説

既遂時期調整後(中間説)

燃え上がり説

毀棄(一部損壊)説

 

従来の議論は、この4説を中心にして争われており、これは現在においても「ほぼ互角に拮抗している」状態です。4説について簡単に説明しておきます。

 

(1-1)独立燃焼説

 

火が媒介物を離れて目的物が独立に燃焼を継続する状態に達した時点を「焼損」と捉える見解です。判例は、この立場を確立しています。

独立燃焼説においては、燃焼の事実に加えて、「燃焼継続可能性」を要件として設定すべきという理解が極めて有力(山口厚『刑法各論』p.379)ですし、判例の立場もそのようなものとして理解できるという分析も有力です(酒井安行・『刑法判例百選2各論』p.167、星周一郎『放火罪の理論』p.245)。これは、結局「焼損」について「公共の危険」の徴表として捉える事を意味するのですが、その点は改めて後述します。

 

(1-2)燃え上がり説

 

(独立燃焼に加えて)目的物の重要部分が燃焼を始めた時点、いわゆる燃え上がった時点を「焼損」と捉える見解です。

独立燃焼説を「公共の危険」を「焼損」の文言に読み込む観点から、既遂時期を遅らせる形で修正した見解で、重要部分か否かは「公共の危険」を発生させうる部位か否かで判断されることになります。

 

(1-3)効用喪失説

 

(独立燃焼に加えて)火力によって目的物の重要部分が焼失しその効用を失った時点に「焼損」を認めようとする見解です。

既遂時期が早くなる独立燃焼説に対抗する形で古くから主張されてきた見解で、「焼損」の「損」という字にも表されているように、放火罪そして「焼損」概念が財産犯的性質をも有する事から、かかる性質を重視する見解です。この見解がいうところの重要部分か否かは、文字通り財産的価値として重要か否かで判断することになります。

 

(1-4)毀棄説(一部損壊説)

 

(独立燃焼に加えて)火力によって目的物が毀棄罪において必要とされる損壊の程度(=一部損壊)に達することをもって焼損と解する見解です。

これは、効用喪失説では既遂時期が遅くなりすぎることから、重要部分ではなくとも一部損壊に達したのであれば、「焼損」を認める見解です。効用喪失説について既遂時期を少し早める形で修正しているわけです。

 

以上、4つの学説を概観してきましたが、理解すべき重要な事としましては、独立燃焼説以外の全ての学説は、独立燃焼説よりも既遂時期を遅らせなければならない、という政策的判断の下に主張されたものでして、独立燃焼+αの要件が模索されてきたことから、「いずれの見解においても、独立燃焼が前提とされている」(松宮孝明「不燃性建造物に対する放火における『焼燬』の概念」甲南法学261p.85)ということです。

 

(2)難燃性建造物に対する対応

 

しかし、難燃性建造物が登場した事により、独立燃焼に達せずとも有毒ガス等の危険が発生する事態が生じました。従来の学説は全て独立燃焼の存在を前提としていたため、このような事態を捕捉できず、危険を野放しにしてしまうのではないか、という虞が生じたのです。

cf. ちなみに、このような有毒ガス等が「公共の危険」にそもそも含まれるのか、という点も議論になりますが、それは既に「公共の危険の意義(上)」で述べましたので、そちらをご参照ください。結論としては、含むと考えるのが一般的です。)

 

(2-1)新たな学説の登場

 

そのような観点から新しい見解が主張されています。

 

❶河上和雄教授の見解(新効用喪失説)

 

河上教授は、木造建造物の場合には独立燃焼説に合理性があることを認めつつ、難燃性建造物においては、上記理由等から独立燃焼の有無を基準とするのは、不合理と指摘されます。

その上で、難燃性建造物の場合は、「もともと、放火罪が放火罪たる由縁は、火力により建造物を損壊し、公共の危険を生ぜしめることにあるのであるから、建造物本体が独立に燃焼することがなかったとしても、媒介物の火力によりコンクリート壁が崩落し、あるいは(人が窒息死する程のガスが出て)媒介物の火力によって建物が効用を失う程にいたった場合には、これを単に建造物損壊としてとらえることなく、放火罪としてとらえるべき」である(河上和雄「放火罪に関する若干の問題について」捜査研究263p.43)、とされています。

 

❷井田良教授の見解

 

井田教授は、独立燃焼説がいう独立燃焼の有無は合理的な基準となっていない点を指摘した上で、「現実に即した見解は次のようなものであろう。すなわち、独立燃焼や重要部分の燃焼開始の有無などに拘泥することなく、むしろ直截に、建造物の構造、その素材などをも考慮に入れたうえで、客体に火力が加えられることにより、(仮に付近に人がいたとすればその生命・身体に)危険の発生した(であろう)時点をもって焼燬の時点と考えるのである。もちろん、「焼燬」となし得るためには、あくまで目的物自体が火力の影響で少なくとも一部損壊の程度に達したことが必要であり、またガスや煙も媒介物の燃焼から発生したのでは足りないであろう」(井田良「放火罪をめぐる最近の論点」阿部純二ほか『刑法基本講座第6巻各論の諸問題』p.190)とされています。

 

❶のポイントは、「建物が効用を失う程にいたった場合」という部分というよりも「火力」という言葉だと思います。媒介物による燃焼も「火力」が存在している点で、種々の危険の誘因となるものであるため、目的物による燃焼を要することなく、「公共の危険」の存在を肯定できるという論理です。

これに対して、❷は、「公共の危険」が実質的な基準と捉える点では❶と同様ですが、媒介物による燃焼では足りず、あくまで目的物が判断対象であり、目的物が(燃焼状態にはならずとも)一部損壊の程度に達した事が必要であるとしているわけです。

従来の見解は、いずれも「目的物自体がどの程度燃焼したか」に着目し、その燃焼の程度を基準とした主張であったのに対し、❶や❷は、そのような客体(目的物)の燃焼の程度に必ずしもこだわらず、「放火罪規定が前提とする危険が発生する状況を創出したか否か」という実質的な観点から、焼損を解釈しようとするものなのです(星周一郎『放火罪の理論』p.173参照)

 

しかし、どちらの見解も論証する際には全くおススメできません。

❶は、媒介物の燃焼で足りるとしてしまうのでは、(「建造物」の)「焼損」という文字解釈の枠を飛び越えるものでして、取りづらいですし、逆に、どうせ飛び越えるのであれば「焼損」という文言を無視して「公共の危険」のみが既遂時期を画するというcf.内において上述した見解の方が、論理的にスッキリするため、この見解を論証する実益があまりないのです。

❷は、「公共の危険」が実質的な基準であるという点は正当ですが、「焼燬」となし得るためには、「あくまで目的物自体が火力の影響で少なくとも一部損壊の程度に達したことが必要」という最も肝心な基準部分が、どのように論証して導くべきかが不明で、これだけではあまり説得力がないように思えるからです。

 

(2-2)独立燃焼説の再構成

 

判例は、独立燃焼説を採用する際、その表現において単に「独立した燃焼」のみを要求するものと、「独立した燃焼が継続しうる」ことを要求するものとがあります(丸山雅夫「判例理論としてのいわゆる『独立燃焼説』(上)」判例時報1394p.164以下)。

しかし、仔細に判例を分析すると、判例は「単に「客体がどれだけ燃焼したか」ではなく、「どのように燃焼していたか」を判断していたのではないかと考えられる」(星・上述p.246)のです。

つまり、「判例のいう「独立燃焼」には、実際には、燃焼の一定程度の継続性や発展性、火勢の強さが存在したという要素がかなり含まれていると解し得る。そして、そのような燃焼の存在によって、「公共の危険が発生した」という判断が行われてきた」と言えるのです。(星・上述p.247

 

また、放火罪の主たる性質が(財産犯ではなく)公共危険犯である事からは、やはり「燃焼作用には、それ自体に継続性・発展性がある」事が中核に据えられるべきであり、焼損概念の解釈としては「燃焼作用」を基準とすべきなのです。そして、上述の「公共の危険」の徴表としての位置づけから、「ある程度の継続した燃焼があって、そのまま放置すれば燃え広がる危険が存在した」という要件が当然に導かれるのです。

cf. 以上は、独立燃焼説について「燃焼継続可能性」を要求すべきとする考え方をほぼそのまま敷衍しているにすぎません。星准教授の見解の独自性としては、判例の立場もまたそのような見解と理解できると主張されている点です。また、いわゆる「燃え上がり説」と構成はほとんど同じなのですが、決定的な違いは、「重要部分」などという曖昧な基準は設定していないということです。)

この見解からは、難燃性建造物においても、例えばコンクリート造の建物の木製の窓枠や手すり等の「独立燃焼」が認められれば、裁判例(東京高判昭和491022、札幌高判昭和471219)は、「焼損」の存在を肯定していますが、実は「火勢の強さ」という形で「燃え広がる危険」の存在を肯定している事に着目し、結局「燃焼作用の継続性」をも判断しているという上記基準を採用しているのだと理解するのです。

 

ここから、難燃性建造物における独立燃焼説の立場からの処理が見えてきましたね。

まず、焼損した部位、程度から事後的に「独立燃焼」の有無を認定します。この際、「建造物の一部」(=「これを毀損しなければ取り外すことができない状態にある」部分)のどこかが炭化、滅失したか否かという観点から認定します。

cf. この際注意すべきは、「「独立燃焼」ということが、「いま媒介物を取り去っても、目的物の火がすぐに消えてしまうことはないかどうか」という、いわば事後予測であることから、結果として生じた客体の燃焼の程度を間接事実として、独立燃焼の有無を認定したものであり、結果としての燃焼の程度が、それ自体として独立燃焼の要素を構成するということではない」事及び、「専ら媒介物の燃焼の火力により、客体が「炭化」等に至ることもありうるので、その認定には慎重さが求められ」るということです。酒井安行・『刑法判例百選2各論』p.167参照)

 

次に、「公共の危険」の徴表としての「焼損」の位置づけから、「燃焼作用の継続可能性」を基準として導出し、それを認定するための要素として、「火勢の強さ」、「燃え広がる危険」といった点を検討すればよいでしょう。

これで、ある程度は精緻な既遂時期の分析ができるように思われます。

この見解からは、難燃性どころか不燃性建造物であり(現実にそんな建造物が実在するのかは分かりませんが)、全く客体が燃焼しなかったのに、有毒ガス等の危険が発生していたような場合は、燃焼作用を前提とする概念である「焼損」に該当しないため未遂にとどまると言うほかはないですが、(難燃性建造物をも可能な限り議論の対象とする理解を採っているのですから、)そこまでは罪刑法定主義の見地から許容できないと言及すれば、それで良いように思います。