公共の危険の意義(下)
前回は、「公共の危険」の意義を明らかにしました。今回は、その保護法益としての「公共の危険」が、どのように要件論に結びついていくのかを、抽象的危険犯と具体的危険犯に分けて説明していきます。
④ 抽象的危険犯と「公共の危険」
前回、「公共の危険」とは、「不特定または多数人の生命・身体・(軽微ではない)財産に対する(延焼の危険に限定されない、一般人が脅威を感ずるかどうかという意味での)危険」と定義できる事を示しました。
このような「公共の危険」は、108条、109条1項においては明文で要件として規定されてはいません。しかし、放火罪が公共危険罪である以上、「公共の危険」の存在は少なくとも概念の上では犯罪成立に不可欠です。
(1)通説の考え方
そこで、通説は、108条、109条1項においては、その客体に対する放火は、類型的に人の生命・身体に重大な脅威を与えるものであり、「抽象的危険の発生がつねにあるものと擬制されている」と考えています。それが、108条、109条1項が抽象的危険犯とされる所以なのです。
この「擬制されている」という意味をもう少し説明してみましょう。
108条は、現住または現在建造物等放火罪でしたよね、そして109条1項は他人所有非現住かつ非現在建造物等放火罪です。両者に共通しているのは、「一般人の脅威感」の観点から見たときに、「建造物内に他人が存在する蓋然性」が類型的に認められることです。108条については、「現在」あるいは「現住」であることから「建造物内に他人が存在する蓋然性」が認められ、109条1項については、「他人所有」であることから「建造物内に他人が存在する蓋然性」が認められるのです。
そして、類型的に「建造物内に他人が存在する蓋然性」のある建造物への放火は、周囲への延焼の危険等を別途考慮するまでもなく、「建造物内に存在する可能性のある者への危険」という形で、「公共の危険」を内包するのです。これが「擬制されている」の意味です。
(cf. この考えは、井田良「放火罪をめぐる最近の論点」阿部純二ほか編『刑法基本講座第6巻各論の諸問題』における井田教授の考え方を私なりに一歩進めたものです。この論文において井田教授は、108条について、現在建造物の場合はその者への危険、現住建造物の場合は「いつ何時、居住者や来訪者が建造物内に立ち入り、放火により生命・身体に危険を受けるかもしれない」事などを理由に、「公共の危険」の擬制を認めますが、109条1項については、「右と同様のことは、109条1項の非現住建造物放火罪の解釈についてもいい得よう。」とするのみで、詳しい理由づけは述べておられません。)
(cf. 「他人所有」であれば「建造物内に他人が存在する蓋然性」が類型的にあるという理屈をもう少し(井田教授の考え方を借用しながら)私なりに説明します。まず、物理的・客観的には、「自己所有」か「他人所有」かは、決定的ではありません。せいぜい「自己所有」であれば、人の出入り実態を把握しやすいから、なるべく人がいる状態での放火を避ける事が可能であるという点で、少しは「他人が存在する蓋然性」が低いといえるのみです。しかし、「一般人の脅威感」の観点から見た場合、「他人所有」であることは決定的だと言えそうなのです。
「他人所有」である事は、放火者にとって「他人が存在する蓋然性」についての不確実性が増加する事を意味します。そして、(実際は、建造物内に人がいなかったとしても、)そのリスク自体こそ「一般人」にとっては脅威であり、これは放火者が負担すべきリスクでしょう。そう考えると、「他人所有」であれば、「建造物内に他人が存在する」事へのリスクは放火者が負担すべきという意味から、「建造物内に他人が存在する蓋然性」を類型的に肯定できるのです。『刑法の争点』p.223において曲田准教授が「109条1項物件についても、他人所有物件であることも相まって、たとえば予想だにしない形で誰かが燃えている当該物件に近寄る可能性は常に残る」とされているのは、この趣旨のものとして理解できます。)
(cf. ここで理解すべき重要な点として、このような考え方からは、108条の中でも「現住」建造物の場合、及び109条1項の場合においては、「抽象的公共危険犯であるばかりでなく、建造物内部に存在する可能性のある人の生命・身体についても抽象的危険犯とされており、二重の意味で抽象的危険犯性を持つ」(西田典之・『刑法理論の現代的展開各論』p.283)ということです。詳しくは、「現住」性を取り扱う際に説明します。)
(2)有力説の考え方
以上の通説の考え方に対して、抽象的危険犯においても「公共の危険」を不文の要件とすべき、と考えるのが最近の有力説です。
放火罪の公共危険犯としての罪質からすれば「公共の危険」を不文の要件とする事は、決して採りづらい解釈ではありません。むしろ論証もしやすいですし、これはこれでおススメです。
もしこの有力説の立場に立つ場合は、抽象的危険犯においても当然「公共の危険」の認識の可否が問題となりますし、既遂時期は、「焼損」と「公共の危険」の両方が認められた時点と理解することに必然的になる事に注意して下さい。また、構成要件に違法性推定機能を認める(一般的な)立場からは、「公共の危険」は違法要素ではなく構成要件要素と考えるべきであるようです。
⑤ 具体的危険犯と「公共の危険」
具体的危険犯においては、「公共の危険」が要件として明文で規定されているため、存否は問題となりえません。
ここで問題となっているのは、109条2項、110条1項、110条2項で要件として規定されている「公共の危険」は、今まで議論してきた放火罪の本質としての「公共の危険」と全く同一のものか否かです。
西田教授は、具体的危険犯における具体的な「公共の危険」とは、「108条、109条1項所定の建造物等への延焼の危険」を意味するとされます(西田典之『刑法各論』p.279)。その理由は、109条2項、110条2項の罪について結果的加重犯として111条1項に延焼罪がわざわざ設けられているのは、基本犯(=「第109条2項又は第110条2項の罪」)が禁止されるところの危険性が、類型的にみて加重結果(=「第108条又は第109条1項に規定する物に延焼」)に実現しやすいからであり、そのこととの整合性からは、これらの場合における「公共の危険」を「第108条又は第109条1項に規定する物」への延焼と捉えるのが理論的にスッキリするからです。
もっとも、小林憲太郎准教授が『刑法判例百選2(第6版)』p.175で指摘されているように、結果的加重犯が規定されている事は、基本犯の典型的な類型を示すことにはなりますが、その類型以外を排除する理由には全くなっておらず、理由づけとしては弱いように思われます。
そこで通説は、「公共の危険」は統一的に理解しています。
判例(最決昭和15・4・1)も「同法110条1項にいう『公共の危険』は、必ずしも同法108条及び109条1項に規定する建造物等に対する延焼の危険のみに限られるものではなく、不特定又は多数の人の生命、身体又は前記建造物等以外の財産に対する危険も含まれる」としていますので、このように理解して間違いないでしょう。
⑥ まとめ
小林憲太郎准教授は、判例百選p.174において、「公共の危険」に関して実は対立軸が2つあるとおっしゃっていますが、これは、本稿でいうと③と⑤の議論は位相が違う、ということです。
「AのBに対する危険(C)」と定義される「公共の危険」は、前回詳述しましたようにA・B・Cの全ての要素について限定するか否かの議論(本稿③)がなされており、さらに、公共危険罪の本質としての「公共の危険」(本稿③)と比較すると具体的危険犯における明示的な構成要件要素としての「公共の危険」(本稿⑤)は、延焼罪との兼ね合いから発生経路が限定される必要があるのではないか、が議論されているのです。
本稿⑤は、「危険の範囲」の問題であるため、本稿③(3-1)「危険の範囲」と内容がかぶっていますが、誤解を恐れずに言うと、本稿③が総論、本稿⑤が各論という関係にあるわけで、議論のレベルが少々異なるのです。
本稿においては、本稿③(法益という基軸)と本稿⑤(発生経路という基軸)を分け、学説を「限定説」、「非限定説」、「修正非限定説」に分類するという小林准教授がされたような分け方をしても「公共の危険」の意義に関する議論を全て整理することはできない、と考え、より議論を細かく区切り、このような分類をしてみた次第です。