公共の危険の意義(上)
放火罪第2弾として、放火罪の中核概念である「公共の危険」について説明したいと思います。
① 放火罪における「公共の危険」
まず、明らかにしなければならないのが、「公共の危険」概念は、放火罪全体を規律する概念であるという事です。条文上は、109条2項、110条、116条2項にしか登場しませんが、前回説明しましたように、「公共の危険」とは、公共危険罪としての放火罪の罪質から当然に要求される要件ですので、当然108条、109条1項においても(概念上は)要件となっているのです。
(cf. これに対して、英米では放火罪は(毀棄罪の延長線上の)財産犯と捉えられており、「公共の危険」は要件となってはいません。)
② 「公共の危険」の本質
火は、人間のコントロールが及ぶことなく、人の生命・身体・財産に対する大規模な危険を生じさせ、社会生活に対する重大な脅威となります。このように(木造家屋が密集し、延焼の可能性が高い)日本では捉えられてきたからこそ、放火罪は社会的法益に対する罪としての公共危険罪である、との性格付けがなされたのでした。
とすれば、延焼の危険を中核とする人への生命・身体・財産に対する危険を生じさせ、社会生活を営む一般人に重大な脅威を与えることこそが、「公共の危険」の本質です。
③ 「公共の危険」の意義
さて、これから「公共の危険」の正確な定義を探求していきます。公共の危険は、「AのBに対する危険(C)」と定義できることを前提に、(1)の人的範囲はAについて、(2)の被害法益の範囲はBについて、(3)の「危険」概念の範囲はCについての議論だと考えると、議論の位置づけがすっきりするように思われます。
(1)人的範囲(Aについて)
上述の「公共の危険」の本質からすれば、「人の生命・身体・財産に対する危険」が「公共の危険」ということになります。
では、「人」とはいうものの、一体どのくらいの人数に危険を与えれば放火罪として認められるのでしょうか。
これは、
|
不特定多数 |
不特定少数 |
特定多数 |
特定少数 |
「不特定であればよい」 |
○ |
○ |
× |
× |
「多数であればよい」 |
○ |
× |
○ |
× |
「不特定かつ多数」 |
○ |
× |
× |
× |
「不特定または多数」 |
○ |
○ |
○ |
× |
・・・のいずれとするのか、という議論です。
判例(最判平成15・4・15)・通説は、「不特定または多数」でよいと考えています。
その理由としては、危険が多数に及ぶのであれば、当然に放火罪による保護を与えるべきであるし、不特定の法益に危険が及ぶのであれば、何びとに危険が発生するかわからない以上、その危険は一般に及んでいると評価できるため、放火罪により保護すべきといえるから、と説明されています。
(cf. 伝播性の理論においてもそうなのですが、「多数」という評価はし辛いですよね。被害法益が5個~10個程度なら、論証に説得力を持たせるのは難しいです。そこで、どうしても「不特定」という評価を多用することになりますので、「不特定かつ少数」の場合の論証を用意しておくのは、必須です。おそらく、論証の際のポイントは、「一般人の社会生活への重大な脅威が公共危険罪としての重罪の根拠」→「危険が不特定の法益に及ぶのであれば、(当該少数人とは互換可能であり、)危険は一般に及んでいる」→「不特定のみで公共の危険発生」という論理だと思います。)
(2)被害法益の範囲(Bについて)
以上の議論からすると、「不特定または多数人の生命・身体・財産に対する危険」と「公共の危険」を定義できることになりますが、「財産」だけ「生命・身体」と比べると2ランクぐらい価値が落ちるように思われますよね。ここに着目して、保護すべき「財産」を限定すべきではないか、という議論があります。
学説においては、例えば小さなゴミや傘等にのみ延焼の危険が及ぶような場合には、「公共の危険」は否定されるべきという認識では一致していますが、限定の仕方は全く一致していません。
「財産」にのみ「多数」を必須の要件とする説、重要財産に限定するという説、「財産」を保護対象から外すという説、一般人の危険感の観点からとるに足らないような危険しか生じさせない財物を除くという説等があります。
個人的には、「不特定」を基準として導く際、「一般人の社会生活への重大な脅威」が本質だと言及した以上、「一般人の危険感の観点」から軽微な財産を除外するという曲田准教授の考え方(『刑法の争点』p.222)がおススメです。
判例(最決平成15・4・14)は、被害車両の近くに自動車2台と300kgの可燃ごみの置かれたごみ集積場があった事案において、「市街地の駐車場において、被害車両からの出火により、第1、第2車両に延焼の危険が及んだ等の本件事実関係の下では、同法110条1項にいう『公共の危険』の発生を肯定することができる」、としています。
これは、2台の車両という少数で、かつ重要とまでは評し難い財産への延焼の危険にのみ言及し、公共の危険の発生を肯定していますので、「財産」について全く限定しない立場のように一見みえるのですが、限定の必要性を肯定する学説は、こぞって「延焼の危険が及んだ等の」という部分の「等」を強調して、判例も「財産」を限定する事を否定した訳ではない、と主張しています。
以上をまとめると、「不特定または多数人の生命・身体・財産」と通常は定義してよいのですが、軽微な「財産」にしか延焼の危険は及んでいないような場合には、それでも犯罪成立を肯定するのは、通常の価値判断からしてあまり得策ではないため、一般人の危険感の観点から軽微な財産を「公共の危険」から除外する等のように、一定の処理を予め考えておく必要がありそう、ということです。
(3)「危険」概念の範囲(Cについて)
(3-1)「危険」の範囲
では、「公共の危険」とは、「不特定または多数人の生命・身体・(軽微ではない)財産に対する危険」と定義できるとして、「危険」は、延焼の危険に限定されるのでしょうか。それとも、その他の危険も含むのでしょうか。
この点につきましては、
「公共の危険の発生と延焼の危険の発生とは必ずしも同じではない。延焼の危険と無関係に公共の危険が生ずることもあり得る。たとえば、有毒ガスや煙の発生による危険、火力による火傷の危険、付近の人々が出火を見て退避しようとして受ける種々の危険、消火行為に出た者が火傷を負う危険などは、延焼の危険とは別個の危険であり、延焼の可能性がなくとも十分に生じ得る危険である」(井田良「放火罪をめぐる最近の論点」阿部純二ほか編『刑法基本講座第6巻』p.186)。
「放火罪が公共危険犯とされるのは、燃焼作用には継続性・発展性があり、危険の範囲が不特定に拡大する性質が認められるからである。それは、周囲に媒介物がある場合には延焼の危険という形で顕在化するが、それ以外にも、燃焼作用それ自体に直接起因する人の生命・身体・財産等に対する危険も考えられる。後者を「公共の危険」から排除しなければならない理由はない」(星周一郎・『刑法判例百選2各論(第6版)』p.177)
・・・という理解でよいと思います。具体的事案を分析する際にも、「延焼の危険」の有無という視点のみでは、拾えない事実は多数あるでしょうから、わざわざ「延焼の危険」に限定する必要はありません。
(cf. 具体的危険犯における「具体的な公共の危険」を「第108条、第109条物件への延焼の危険」と理解する(圧倒的少数説である)西田教授の見解からも、ここで問題となっている、公共危険罪一般に要求される「公共の危険」については、延焼の危険以外の危険を含むと理解することは全く不可能ではないはずです(私見)。
何故なら、次回に言及しますが、百選解説において小林憲太郎准教授が指摘しておられるように、「公共の危険」一般についての議論(保護法益論)と具体的危険犯における「公共の危険」の要件論(保護法益論を前提として、延焼罪との整合性から危険の発生経路を絞るか否かの議論)は、位相が異なり、必ずしも同様に理解する必要はないからです。)
(3-2)「危険」のレベルの判断基準
では、この「危険」が犯罪を肯定できるレベルのものであるか否かは、どのような基準で決定されるのでしょうか。つまり、あくまで物理的客観的に決定されるのか、それとも放火現場におかれた一般人の心理が基準なのでしょうか。
この点、通説は、「社会心理的に一般人をして不安感を生ぜしめる程度に至っていれば危険の発生をみとめる」(曲田統・『刑法の争点』p.222)ようですので、このように理解しておいて間違いはないでしょう。
その理由は明快で、「放火罪の保護目的が、社会の一般構成員の安全感・平穏感を確保することにあるとすれば、一般人が脅威を感ずるような状況が生じたかどうかが基準とされるべき」(井田・前掲p.185)だからです。いかにも論証しやすそうですね。ちなみに、ここでいう一般人は、放火現場におかれた「通常の理性・判断力をもった者」をいいます。
(4)まとめ
以上をまとめると、「公共の危険」とは、「不特定または多数人の生命・身体・(軽微ではない)財産に対する(延焼の危険に限定されない、一般人が脅威を感ずるかどうかという意味での)危険」といえそうですね。
定義としては、括弧の中を覚える必要はありませんが、このような意味であることを理解しておくことは重要であると思います。
少し長くなってしまいましたので、ここで一旦終わります。
次回は、この続きとして、抽象的危険犯、具体的危険犯において「公共の危険」はどのように扱われているのか、という点について見ていきたいと思います。