住居侵入罪総論(上)

住居侵入罪総論(上)

 

住居侵入罪について総論的に問題とされているのは、保護法益をどう捉えるか、及び「侵入」の意義が中心です。今回は、保護法益について、丁寧に説明してみたいと思います。

 

     住居侵入罪とは

 

刑法130は、「正当な理由がないのに、人の住居若しくは人の看守する邸宅、建造物若しくは艦船に侵入し、又は要求を受けたにもかかわらずこれらの場所から退去しなかった者は、三年以下の懲役又は十万円以下の罰金に処する」と規定しています。よく、不法侵入と言われますが、刑法上の罪の名前は、住居(等)侵入罪です。

 

この条文が侵入しちゃダメと書いているのは、「住居」、「人の看守する邸宅」、「人の看守する建造物」、「人の看守する艦船」です。ここから、「住居」については、侵入一般が禁止されているのに対し、その他の客体については、看守されている場合にのみ侵入が禁止されている、と言えますね。これは、プライバシー保護の要請の度合いが異なる事に由来する区別です。この点は、保護法益を考える際に、とても重要ですし、本稿後半でもう一度出てきますので必ず押さえておいてください。

 

「住居」というのは、およそ人が起臥寝食のため日常的に使用する場所を指しています。ホテルや旅館は、特定のAさんは一回しか利用しなかったとしても、およそ人が日常的に使用する場所ですので、「住居」にあたります。

 

「邸宅」とは、(「住居」にはあたらない場合で、)住居に使用する目的で作られた家屋と、障壁など通常の歩行によって越えることのできない設備で囲繞されたその付属地帯をいいます(大判昭和7421)。例えば、空き家や閉鎖された別荘などが、この例です。

 

「建造物」というのは、屋根を有し壁又は柱等によって支えられた土地の定着物で人が出入りすることができる構造のものをいい、住居用以外の建物一般を指します。工場や学校等、いくらでも例を挙げることができますね。

 

さて、この「住居」、「邸宅」、「建造物」という概念は、囲繞地(=付属している土地)をも含むのでしょうか。

 

判例は、「住居」は囲繞地を含む概念ではなく、「邸宅」、「建造物」は囲繞地を含む概念であると捉えています。「邸宅」の囲繞地への侵入は「邸宅」侵入、「建造物」の囲繞地への侵入は「建造物」侵入ですが、「住居」の囲繞地への侵入は「邸宅」侵入と捉えているのです(最判昭和3244)。この背景には、「住居」は、(他の客体よりプライバシー保護の要請が強いため、)「人の看守する」という要件がついていないのですから、その分、射程を厳格に理解する必要があるという考え方があるように思われます。

 

他方、通説は、住居、邸宅、建造物は全て囲繞地をも含む概念と捉えるべきと考えています。「住居」においても建物と囲繞地は一体となってプライバシー保護の役割を果たしているのであり、プライバシー保護の観点からは、分離する事は不可能であるという事を理由としています。

 

この点は、本稿のメインではありませんので、このくらいに留めておきます。もう少しこの点について勉強されたい方は、大塚裕史教授の『刑法各論の思考方法』(新版)p.319p.325を見て頂けると、必要十分であると思います。

 

     保護法益

 

保護法益については、一番理解が深まるのは、住居権説→平穏説→新住居権説という判例・学説の大きな変遷をストーリーで追いかけることだと思いますので、『刑法理論の現代的展開各論』p.102p.108の川端教授の記述を参考に、歴史を辿る形で説明してみたいと思います。

 

現在では、個人的法益に対する罪として理解することに異論のない住居侵入罪ですが、現刑法典は、明らかに社会的法益に対する罪の一つとして性格づけています。刑法の目次で「第12章住居を侵す罪」の前後の章を見て頂ければ一目瞭然です。

 

これは、旧刑法に由来する性格付けで、その旧刑法は、住居侵入罪は、個人を超越する小単位の共同体としての「家庭」という社会に対する罪という考え方に依っていたのです。つまり、「家」制度という公益の保全が目標であると把握されていたのです。

 

(1)住居権説の登場

 

もっとも、「家」制度を前提にした戦前においても、あくまで特定人の住居が被害に遭っているという実体に即して考えると、公益に対する罪と把握するのは、無理があったため、個人的法益に対する罪として理解する立場が、通説・判例となりました。それが、「家長として一家を主宰する者」のみが住居権を有し、これが保護法益であると捉える住居権説です。

 

(2)住居権説から平穏説へ

 

もっとも、戦後、「家」制度が崩壊した事に伴い、「家長の住居権」という考え方は、平等を志向した憲法理念に反するとして、否定されていきました。代わりに台頭したのが、保護法益を「住居の事実上の平穏」と理解する平穏説です。これは、「制度としての家族」から現実的な存在としての「家族共同体」に考察の重点が移行したことを背景としているのです。

 

判例も、第6次王子事件(最決昭和49531)、東大地震研事件(最決昭和5134)において、「住居侵入罪の保護すべき法律上の利益は、住居等の事実上の平穏である」とするなど、平穏説を採用するようになりました。

 

(3)平穏説から新住居権説へ?

 

ところが、「家族共同体」が主体として主に想定される「住居の平穏」という利益は、住居侵入罪を社会的法益のように捉える考え方ですので、個人主義的な考え方が定着するにつれ、平穏説は勢いを失っていきました。その代わりに、有力化したのが、「住居その他の建造物を管理する権利の一内容として、これに他人の立ち入りを認めるか否かの自由である住居権」を保護法益とする新住居権説です。これは、「家族共同体」的思考から、「個々の構成員」のプライバシーの尊重という思考への移行を背景としています。

 

判例も、大槌郵便局事件(最判昭和5848)において、「刑法130条にいう『侵入し』とは、他人の看守する建造物等に管理者の意思に反して立ち入ることをいう」として、(第1審・原審は平穏説を採用していたのに、明示的に)管理者を主体においている事から、新住居権説に親和的な立場であると理解されています。

 

もっとも、平穏説も未だ学説上は有力ですし、判例は未だ平穏説に立脚しているという理解は根強いですので、その点には注意が必要です。上述の批判を受け、平穏説において、「平穏」とは「生命、身体、業務、財産などの侵害の危険性が発生していないことをも意味する」として、より平穏を実質的に把握し、個人的法益を設定した立場が、平穏説の中でも実質的利益説といわれる立場です。

 

(4)多元説

 

大まかには、保護法益論は以上で終わりなのですが、「住居」については新住居権説を、「建造物」等については平穏説を採用するという関哲夫教授による多元説を最後に取り上げます。

 

新住居権説は、プライバシー権を土台として構成された住居への立入許諾権を主として法益とするものです。これは、「住居」にはぴったり当てはまるのですが、(①において述べましたように、プライバシー保護の要請の低い)官公署等の「建造物」には、そのまま当てはまらず、住居への立入許諾(=住居権者の(推定的)意思)は絶対的なメルクマールとは言えないのです。

 

そこで、法益を「住居」の場合と公共「建造物」の場合で多元的に捉えるのが、多元説なのですが、説得的に展開するのは極めて困難ですので、この見解の論証を用意する必要は全くないと思います。それでもこの見解を取り上げたのは、上述の問題意識(=プライバシー保護要請レベルに差があるため、「住居」と公共「建造物」を同一に論ずることはできない)は、いずれの説に立つにせよ極めて重要なものだからです。

 

そこで、判例と親和的な新住居権説に立つ場合に、この問題をどう克服するかについて、理解しておく必要があるのです。

 

(5)新住居権説詳論

 

新住居権説においては、住居権の内容の把握について、論者ごとにやや差があるとはいえ、共通しているのは、住居権とは支配権と自由権の結合したものであると捉えている点です。

 

上述の「住居その他の建造物を管理する権利の一内容として、これに他人の立ち入りを認めるか否かの自由」と住居権を把握する平野教授の見解も、「住居」においては事実上の支配が確立していることが通常であることを前提に、立入許諾権という自由権的側面を強調したにすぎないのです。

 

このように支配権的側面も存在することを前提とすると、立入許諾、すなわち住居権者の意思は絶対的なメルクマールという訳ではなく、住居権者の意思は建物の目的・用途、管理の状況等といった要素(=支配状況に関する要素)も考慮材料となるのです。

 

そして、「住居」については、通常支配が確立していることから、立入許諾権というプライバシー権に根差した自由権が主として問題となりますが、公共「建造物」については、(人の出入りが激しいですので)支配が確立しているとはいえず、また、プライバシー保護の要請が一歩後退していることから、支配権的側面と自由権的側面が共に問題となるのです。

 

このように理解することで、「住居」と「建造物」の両方に適切な基準を提供することができることになります。

 

ちなみに、学説においては、山口教授の『問題探究刑法各論』70頁以下、『刑法基本講座第6巻各論の諸問題』(井上教授)p.161等において、「住居権者の意志は建物の目的、用途等によって制限を受ける」と表現されていますが、これは、自由権的側面が主で、支配権的側面が従であることを強調している(=自由権の原則が、支配権によって、制限を受ける、修正されるという表現)だけで、私の上述の説明と内容は同じです。

 

以上が、保護法益論です。

新住居権説に立っておけば問題ないと思いますが、いかなる説に立つにせよ「住居」と「建造物」を同一に論じない事がキーポイントです。

次回は、保護法益論を前提に、「侵入」の意義について整理してみたいと思います。