伝聞法則総論
今回は、伝聞法則について取り上げます。伝聞法則の論点は多岐にわたりますが、それらを考えるうえで最も基本となる伝聞証拠の定義や、反対尋問権と憲法上の証人審問権との関係を今回は取り上げようと思っています。
① 伝聞法則とは
伝聞法則というのは、「伝聞証拠」は証拠から排除するという原則をいいます。
「伝聞証拠」は類型的にヤバいからとりあえず原則としては証拠から排除しようということです。「伝聞証拠」とは何か、類型的にどうヤバいのかをこれから説明していきます。
② 伝聞証拠とは
刑事訴訟法320条1項は、「公判期日における供述に代えて書面を証拠とし、又は公判期日外における他の者の供述を内容とする供述を証拠とすることはできない」と規定しています。
これは、先入観なしにそのまま読むと、「公判期日外」に得られた証拠の採用を禁止したもので、直接主義(=裁判所が直接取り調べた証拠に限り裁判の基礎となし得るという主義)を規定したものですが、今日では争いなく、「供述」が対象となっている点に着目し、伝聞法則を法が規定しているものと理解されています。
そうすると、条文からは、伝聞証拠とは、「公判期日における供述に代わる書面又は公判期日外における他の者の供述を内容とする供述」と定義できることになります。
もっとも、「供述」とは、通常の語義からすると、「人の供述を内容とする証拠」(広義の「供述証拠」)を指しますが、ここでいう「供述」は、狭義の「供述証拠」(=人が一定の事実を見て、それを記憶し、表現したものを、その存在の証明のために用いられた、人の供述を内容とする証拠)のみを指し、人の供述を内容とする証拠であっても非供述証拠(=狭義の供述証拠以外の、人の供述を内容とする証拠で、その存在又は形状それ自体が証拠資料となるもの)は含まれないと解されています。これは、非供述証拠には、後述するような伝聞証拠特有のヤバさがないからです。
このように、伝聞法則において問題となる「供述」は、狭義の供述証拠に限るのだ、という趣旨を定義に盛り込むことを意図した場合、伝聞証拠とは、「公判期日における供述に代わる書面及び公判期日外における他の者の供述を内容とする供述で、原供述内容をなす事実の真実性の証明に用いられるもの」と定義されることとなります。
(cf. ここで、「供述証拠」と「非供述証拠」の区別及び「非伝聞(供述)」との関係について触れておきます。上記で定義したように「供述証拠」「非供述証拠」を捉えると、供述の中でも原供述の供述内容の真実性の立証に用いないことにより伝聞法則の適用を受けない供述、いわゆる非伝聞供述は、すなわち「非供述証拠」と いうことになります。
混同してはいけないのは、「供述証拠の非供述的用法(=非伝聞供述)」「供述証拠の供述的用法」というときに用いられている「供述証拠」という表現は広義の意味ですから、「人の供述を内容とする証拠」をいいます。
他方、伝聞法則との関係で通常問題となる「供述証拠」は、「人が一定の事実を見て、それを記憶し、これを表現したものを、その存在の証明のために用いる場合の証拠」という狭い意味です。そして、「非供述証拠」は狭い意味の「供述証拠」ではない証拠をいうのですから、広義の「供述証拠」の一部も当然含まれる事になります。次回以降に取り扱う「非伝聞(供述)」は、これにあたれば広義の供述証拠でも「非供述証拠」となり、証拠物等と同様の取り扱いをすべきこととなるものをいうわけです。)
③ 伝聞法則の趣旨
このような「伝聞証拠」はヤバい、として原則証拠排除する根拠は、次のとおりです。
「伝聞証拠」として問題となっている(狭義の)供述証拠は、人による知覚→記憶→表現・叙述というプロセスを経て得られるものですが、そのそれぞれの段階について誤りが生じる恐れがあるにもかかわらず、公判期日外の供述は、❶宣誓に基づいていないため、偽証罪による処罰の警告を受けておらず、❷裁判所による供述態度の観察も行われない上に、❸それによって不利益をうける当事者による反対尋問を経ていないために、公判期日での供述に比べて、類型的に誤りが入り込む余地が高いです。この類型的に誤りが入り込む余地が高く、証拠の信用性評価を誤らせる(ひいては事実認定を誤らせる)可能性が高い点が、公判期日外の供述である「伝聞証拠」のヤバい点です。
このヤバさが解消されない限り「伝聞証拠」は原則として証拠として認められないとすることによって、証拠の信用性評価の正確さ(ひいては事実認定の正確さ)を担保しようとしたのが伝聞法則の趣旨なわけです。
(cf. ちなみに、知覚→記憶→表現・叙述の各過程の誤りに対するチェック方法として❶~❸が挙げられていますが、この中で一番重要なのが、❸の反対尋問です。
この❸の反対尋問の重要性に着目して、平野先生は伝聞証拠を②で説明したような定義ではなく、「(裁判所の面前での)反対尋問によるテストを経ない(狭義の)供述証拠」と 定義されています。
この定義は、現在においては、伝聞法則と直接主義(=裁判所が直接取り調べた証拠に限り裁判の基礎となし得るとの主義)との相違が顕れるよ うな場合(ex. 公判廷に出廷して主尋問に答えた証人が、その後の死亡等により反対尋問に応じられなかった場合における公判廷供述の証拠能力をどう扱う か)に用いることにその意図があります。もっとも、現在の学説の多数説は、②で述べた定義で十分であり、このような定義は不要と考えているようです。)
④ 証人審問権(憲法37条2項)との関係
平野先生のように「伝聞証拠」を「反対尋問によるテストを経ない供述証拠」と定義する立場を採用しない場合であっても、反対尋問が最も重要なチェック方法であることに変わりはありません。つまり、伝聞法則の実質的な根拠として、反対尋問が不能であることが大きなウェイトを占めていることに疑いはないのです。
では、反対尋問によるチェックを経るべきことは、憲法上も要請されるのでしょうか。つまり、憲法37条2項は、「刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を十分に与へられ・・・る権利を有する」と規定していますが、ここに規定されている証人審問権の中に「(被告人に不利な供述に対しては)反対尋問を経ること」は含まれるのでしょうか。もし含まれるとすれば、反対尋問を経ていない証拠の証拠能力を許容することは、(例え伝聞例外規定に該当するとして、刑訴法上は適法であるとしても、)憲法37条2項違反の可能性もあるとして、憲法問題にもなりうるため、この点が問題となるのです。
(1) 通説(実質説)
この点、学説においては、伝聞法則における反対尋問と憲法の証人審問権を結び付け、伝聞法則は憲法37条2項の訴訟法における具体化であるとする見解が通説的見解を占めています。
すなわち、憲法37条2項前段にいう「証人」とは、公判廷で宣誓して証言する狭義の証人のみならず、およそ供述証拠を提供する供述者をいい、憲法37条2項前段は、不利益な供述者に対する反対尋問権を被告人に保障したものと解するのです。ここから、反対尋問が不可能な公判外供述を証拠として認めないという伝聞法則が導かれることになります。このように解すれば、「反対尋問を経ること」は証人審問権に含まれます。
(2) 判例(形式説)
これに対し、判例(最判昭和27・4・9)は、「憲法37条2項は、裁判所が尋問すべきすべての証人に対して被告人にこれを尋問する機会を充分に与えなければならないことを規定したものであって、被告人にかかる審問の機会を与えない証人の供述には絶対的に証拠能力を認めないとの法意を含むものではない」として、あくまで憲法37条2項は、直接主義・口頭主義をうたった規定にすぎず、ここにいう「証人」とは、あくまで語義に素直に、公判期日において尋問される証人をいうものと解しています。
こう解しても、公判期日外の供述者に対しては、憲法37条2項後段によって保障されている証人喚問権によって、喚問を請求し、証人にすればよいため不都合はない、と考えられているのです。このように解すれば、「反対尋問を経ること」は証人審問権に含まれません。
(cf. 余談ですが、「反対尋問権」は証人審問権に含まれるか、と問題提起してしまうと、ピントがぼけた問題提起となってしまうように思います。 なぜなら、証人として出てきた人に反対尋問権を行使するのは、まさに証人審問権として憲法上保障されているのは自明なのですから。その場合に限らないのではないか、というのが通説の問題設定だと思います(私見)。)
(3) 堀江先生の有力説
堀江先生は、実質説を前提とした上で、証人審問権の保障には正確な事実認定を確保するという伝聞法則と重なる目的もあるが、それを超えて、被告人に対し、証人を審問するプロセスそれ自体を権利として保障する意義があると主張されています。つまり、「反対尋問を経ること」のみならず、「反対尋問権を行使する状況を作り出すこと」までも証人審問権の保障が及ぶというのです。
このように解すれば、裁判所や検察側が反対尋問を経ずに伝聞証拠を許容すれば、それは憲法37条2項が裁判所や検察に課している「反対尋問権を行使する状況を作り出す」べき義務違反と構成できますので、構成しやすいことには構成しやすい説であると思います。
以上が、伝聞法則の基礎の基礎です。
この理解を前提に、伝聞法則の諸論点につき筆を進めていきたいと思います。